濃厚な香の匂いが充満する。穢れと妖(あやかし)を退け、ただのヒトの身にもここが聖域であることを示している。 ミナギリ総社の社殿、といってもカミを祀る場ではなく、事務や宿舎のある一帯の奥に、特別な客を迎えるための部屋があった。 「これはこれは、お持ち申しておりました、カズタカ様」 「いや、予定よりも早く来てしまった。忙しいときにすまないね」 向かいに座る総宮司に対し、カズトは柔和な笑みを浮かべた。その隣では、主に失礼な言動は許さないとばかりに、クレハが睨みをきかせている。 クレハの無言の威圧があろうとなかろうと、こういった形式と礼儀を重んじる立場にいる人間には、「カズトと呼んで欲しい」「敬語はいらない」といっても無駄なことは判っているので、カズトは総宮司の追従の姿勢に耐えた。 昨日の試合に出して欲しいと願ったときも、散々懇切丁寧に断られたのだが、カズトが無理に押し切ったのだ。 カズトに怪我をされては困るということなのは判るけれど、一月後正式に神社に入れば、カズトは実体のない高役職につけられるのは目に見えている。無駄に高い地位につけられるなら、せめてなにか神職らしいことをしてからにしたかっただけなのだが。 「いえいえ、お気になさらないでください。カズタカ様のお役に立てるのは、この上ない喜びでございます。 そうそう、昨日の試合は素晴らしゅうございましたな。対戦相手のタスクという少年は、祝(はふり)の中でも武術の腕に優れていると評判なのですが。カズタカ様がご幼少の頃より、こちらから刀術の師範を派遣させていただいた甲斐がございました」 表面を滑るような世辞に、カズトは曖昧に笑って応える。 「ところで本日ご足労願いましたのは、カズタカ様にお使い頂く部屋をご覧にいれようと思いまして。足りないところがあれば仰ってください。お降りになる日までに揃えておきます。 それと、身の回りのお世話をする神官をおつけしますが、これもご要望があれば承りますが……」 「いや、僕にはクレハがいるから、それで充分……」 カズトの隣に腰掛ける少女が、満足そうに胸を張った。 「そういうわけには参りません。 カズタカ様には快適に過ごして頂きたいですからな」 「…………う〜ん……」 これは、何か望まなければならないだろう。 そうしなければ、宮司の面子が保てないのだ。 「……そうだね、それじゃあ……」 ちらりと開け放たれた窓の外を見る。 数人の祝が忙しそうに行き来しているのが見える。 そのうちの一人に、カズトの目が留まった。 「あの少女を」 若宮が指さした先を目で追って、宮司の顔が強ばる。 「しかしカズタカ様、あの者は……。 あの者は、術も使えぬ無能のくせに、幼い頃神の声を聞いたなどと空言を申すような娘です。見栄えはたしかによいのですが。カズタカ様の側仕えには相応しくないかと……」 「いいんだよ。 彼女はそんな、無能ではないような気がするけれどね。それはともかく、誰でもいいのだろう? なら……僕は、彼女がいい」 「……かしこまりました。 では、お部屋にご案内いたします」 宮司は、深々と頭を下げた。
「鬼面の女?」 スメラの対策本部となっているホヅキの総社の一室で、タスクは上司にことの次第を報告していた。 スメラに関する様々な資料や調書が雑然と積み上げられている。本来整然とした神殿の中で、ここだけ異質であった。 特にスメラ事件に関わっているわけではないタスクは、この部屋に入るのは昨日に続いて二度目である。 この混沌とした空気を、神職としては望んではならないのだろうけれど、タスクにはどこか馴染みやすさを感じる空間である。 「ああ……いや、はい。真っ赤な衣の、異形の面をかぶった女が紅葉持って舞ってた……ました。顔が判らないんではっきりとしたことはアレですけど、たぶん……二十代から三十そこそこってとこだと」 「おまえは見たのか?」 取調官が隣のユイナにも訊ねる。 「いいえ。私は、祓えのできる方を探しに行ってましたので、見ておりません」 幼なじみよりはよほど自然な敬語で、ユイナは答えた。 「……そいつがスメラなのか?」 「いや、違いますよ。その女、スメラの命令だからここは退くって言って、どっかに行っちまいましたから。 どっから指示があったのかなんて、さっぱり判らんのですけど」 「………………」 祝の教育の至らなさか、頻発するスメラによる穢れテロに対するものか、苛立ちを眉間に深々と刻みつつ、神官はコツコツと爪で机を叩いた。 「で、他に変わったことは?」 「その女、影に変じて消えたんすよ。だから本当に、オニかも。 …………ん? どうかしました?」 「そんな人間がいるわけがないだろう!」 怒声が響いた。
社が用意できる最高級の調度品、中流貴族の邸に並んでいるものと同レベルの家具が並ぶ部屋に、カズトとクレハはいた。 部屋自体は歴代の降下した、皇族に使われてきたものだろう。 平民まで降下する皇族、あるいはアマツヒルメノカミ以外の神に帰依する皇族はかなり希有な上に、四大社と穀霊を祀る総社の五社が交代で引き受けるから、この部屋が前に使われたのは百年単位で前のことかもしれない。 ともかく、家具はそのほとんどが新しく設えられたもののようだ。 彼の身を引き受けることで、相当な金額がミナギリの総社に流れているのだろう。 「けっこう、いいお部屋ですね、カズタカ様ぁ」 「そうだね、新たに要望することもなさそうだけれど……」 要望しなければ、先ほどの宮司はさらに彼に気を遣うだろう。 ならばさて、何を頼もうかとカズトが思案し始めたとき。 「失礼いたします。お呼びと伺い、参上いたしました」 控えめな声が聞こえた。 「ああ、勝手に入ってきてぇ」 カズトの代わりに答えたクレハの声に応じ、戸が開く。 「…………!」 戸に手をかけたまま、ミオはその身を凍りつかせていた。 元々色白な肌が、みるみる青ざめていくのがはっきりと判る。 それを見て、カズトはくすりと笑った。 「僕の顔に……何かついている?」 「い……いえ」 問われたミオの目が、若宮の視線から逃れるように伏せられた。 「……まあ、そう畏まらなくていいよ。僕も一月後には君と同じ身分だ。序列は違うけれど形式上のものに過ぎないし……楽にしてくれると嬉しい。 宮司には、僕の身の回りの世話をするように言いつかっているかもしれないけれど、それは全部クレハが……この子がしてくれるから。君には……そうだな、僕の話し相手になってほしい。 どうだろう?」 カズトが笑い……その目がわずかに細められる。 それの視線から逃れるように、ミオは深く頭を下げた。 「承ります」 「よかった」 顔を上げたミオの目に、にっこり笑うカズトの顔が映る。 畏れるところなど、何もないような顔なのに。 ミオはかすかに寒気を感じた。 「ところで……君は、幼い頃にカミの声を聞いたそうだけれど?」 「……はい。 ですが、なにぶん幼少の頃のこと。それも海に溺れたときのことですので、幻覚でも見たか、夢での出来事か。 今では自分でも現実にあったこととは思っておりません。そのようなお話は、お忘れくだされば幸いです」 ミオは半分嘘をついた。 忘れて欲しいのは本当だが、自分がカミの声を聞いたことを疑ったことは、一度もない。彼女には疑うことができないのだ。あまりにも記憶が鮮明すぎて。そして、それ以来見えるようになった不可視の存在のために。 「忘れることなんて、ないよ。君は自分が聞いたものにもっと自信を持っていいと思う。 自分を信じることって、案外難しいことだけれど。せめて自分くらいは、自分を信じてあげたいよね」 「………………」 カズトの顔が、ものすごく優しくて、同時にとても寂しげで、ミオは畏れていたはずのその顔に、一瞬心を奪われる。 「……はい。暖かいお言葉、痛み入ります」 畏れからではなく、心からの感謝でミオは頭を垂れた。 「ところで……聞いていいかな?」 「何をでございましょうか?」 つい、警戒心を解いて、ミオは聞き返した。 「君が声を聞いたのは、タマユラヒメノカミだと聞いたけれど……間違いはないかな?」 「? ……はい」 何故そんなことを訊ねられたのか判らず、戸惑いを顕わに、ミオは頷いた。 「ふぅん……。やはり、彼女の……」 「?」 カズトが何を小さく呟いたのか、聞き取れなかったけれど、ミオの顔が再び恐怖で彩られた。
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