このクニでもっとも崇高なもの太陽と、その弟たる月が、同時に地上を見捨てるときがある。 大地を照らし、人間の行く手を示すのは、頼りない星々の光と、赤々と燃える炎だけだ。 このような夜は、魑魅魍魎の類が跋扈するという。 ただでさえ、この数ヶ月のスメラ事件で街は不安に覆われている。新月の夜は、人々がもっとも怖れに眠れぬ夜となった。 飼い犬の遠吠えさえ、不気味に響く。 「……なんか、やな夜だぜ」 木霊するようにあちこちで上がる遠吠えに、タスクは渋い顔になった。 今夜は本来夜勤ではないのだが、自主的に警邏に参加している。ユイナとミオも一緒である。重大な秘密を共有してしまったからか、必要以上にこの三人で固まって動くことが多くなった。 ミオなど、禰宜(ねぎ)になったのだから緊急事態で呼ばれるまで、神殿に待機していてもいい身分なのだ。もっとも、何もせずにいる方が落ち着かないというのはタスクも理解できる。 「嫌な予感がしているのは、誰しも同じでしょう。だからこそ、こうして巡回しているのではありませんか?」 「まぁ、な」 秘密を共有しているというだけでなく、穢れの気配に鋭いミオと行動することは、それだけ被害が広がる前に穢れに対処できるということだ。この最近の事件で、ミオが穢れを祓ったのはその一割ほど。他の禰宜と比べ、圧倒的に多い。 そして回を重ねるごとに、彼女の祓えは強力なものになっていた。 「最近、小さい妖も含めると、日に五度は何か起こってるもんね」 「ああ。あいつの狙いがなんなのか、いまいち判ら……。 どうした、ミオ?」 突然目の前を掌で覆った友人の姿に、タスクは眉を寄せて振り返る。 「………………。皇宮……」 「え?」 力無く呟かれた言葉に、聞き間違いかとタスクとユイナは思う。 皇宮といえば、このクニでもっとも盤石なセキュリティを誇る、尊皇とその一族の住まいである。政教の中枢でもあり、クニを支える要である。 「今、皇宮が……見えました。おそらくは、タマユラヒメノカミ様からの……」 「警告?」 「……ええ」 不安げなユイナの言葉に、ミオは頷いた。 「スメラを名乗る以上、あいつの狙いは皇位だろう。すでに尊皇の徴である神器のひとつを盗んでる。次は一気に玉座を狙うってのも……ありえない話じゃないな」 「まさか……。……あ」 ユイナは幼なじみを見て、息を呑んだ。 何かに耐えるように、表情を殺したタスクの顔。こんな顔は、幼い頃から顔を毎日のように顔をつきあわせてきて、見たことがない。 「行きましょう。ここで議論をしていても答えのでないことですし。カズト様の……」 真意を確かめることができるかもしれません、という言葉を、ミオは口の中に留めた。 そんなことは、タスクたちだって判っているはずだ。 その先に見えるものが何なのか、それは誰にも判らないけれど。
広い路上に怪我人が横たわっている。 建礼門、通称白馬陣(あおうまのじん)と呼ばれる、皇宮の南門の前だ。通常、争いや負傷、穢れといったこととは無縁なはずの場所である。 それも十人、二十人ではきかない。百人近くはいるだろう。 「どうした?!」 「妖(あやかし)が……皇宮に……」 「警備に抜かりは……ないはずなのに」 「!」 「そんなっ!」 タスクとユイナが青ざめる。 「それに……人間の賊も十数名」 比較的傷の浅い男達が答えてくれたのだが、それでも息も絶え絶えな様子である。 見れば、タスクの目にも判るほど、穢れがべっとりと傷口に張り付いている。 軽傷の禰宜が祓ってはいる。けれど辺り一面穢れが充満しているし、なにぶん負傷者の数が多いので、手が足りない状況だ。 「尊皇と主立った女御御前、宮様方にはご避難いただけたが……」 「まだ中には……」 「応援は呼んだんだが……」 口々に現状が述べられる。 社まではやはり距離があるし、深夜で人は少なく、夜警に廻っている者も多い。それにどうしても逃げた皇族の警護や皇宮の奪還が最優先事項になってしまい、怪我人の手当や浄化は後回しにされるだろう。 「くそ……っ」 タスクはばしんと己が掌を反対の手で殴る。怒りのぶつけ先を見つけあぐねているようだ。 「ミオ……どるする?」 ユイナはミナギリの禰宜を振り返る。 ユイナとしては、スメラのことがもちろん一番重要だけれど、目の前で怪我と穢れで苦しんでいる人々を放っておくこともできなかった。 ミオも同じ考えだったらしい。もう準備を整えていた。 玉串を手に、塩を周囲に撒き、歌うように祝詞を唱える。 先を急ぎたいタスクが、何か言いかけて口を閉ざした。 「……うちとのたまがき、きよくきよしともうす」 ミオを中心に、清らかな空気が穢れを押し流す。 その桁違いの威力に、その場にいた全員が感嘆の声をあげた。 「…………ふぅ」 「大丈夫?」 息を吐いたミオに、ユイナは案ずるように声をかける。『大丈夫じゃない』などとは何があっても言わない娘だとは判っているが、やはり気にせずにはいられなかった。 ただでさえ、祓えは術者の精神に負担をかける。それが、ミオはユイナも一度見た、あの酷い滅びの光景を見せつけられながら行うのだ。いつだって、無理をしていないはずがない。 滅びの光景を見せつけるカミとのつながりがあるおかげで、彼女の祓えは他の禰宜よりも絶大な効果を発揮するのだが。 「はい。ただ、この玉串はもう……使えませんが」 常緑の葉は輝きを失い、枯れる寸前である。さらにひどいのは、榊に付けられた紙垂(しで)である。純白の紙は茶色く変色してしまっている。見れば、撒いた塩も黒ずんでいた。 もとより、玉串は使い回すものではないが、生木であるため予備をいくつも持っているわけにもいかないものだ。 「紙垂は持っているんですが……」 「中に、大きな榊がある。このクニでもっとも神聖な樹だから、この穢れにもまだ負けはしないはずだ。あの樹なら……」 誰かが教えてくれる。 「そうですね。その樹で作った玉串であれば、祓えの効果も高いでしょう」 「んなこたいいから、とっとと行こうぜ。スメラは……」 「とにかく!あたしたちは斥候に行きます! 戻ってこれない可能性も高いんで、呼ばれた本隊が来たら、かまわず突入するよう伝えてください!」 「あ、ああ……」 タスクを遮って、早口でまくし立て、そのまま少年を引きずっていたユイナに圧倒され、怪我人たちは曖昧に頷く。 彼等に見送られ、タスクたちは皇宮の敷地内へと駆け込んだ。
「……くそっ。どっち行きゃいいんだ?」 もちろん、皇宮に入ったことなど一度もない。 タスクはカズトに皇宮の中の様子を訊いておけばよかったと思い、そのカズトがこの事態を引き起こしていることを思いだして、唇を噛みしめた。 「皇宮というのは、アマツヒルメノカミ様を祀るための社ですから、大まかな造りは日頃私たちが出入りしている神社と変わらないはずです。 今入ってきたのが白馬陣(あおうまのじん)ですから……」 ミオの冷静な語り口が、妙にタスクの気に障る。 「造りが判ったってカズトがどこにいるのか……!」 ぱこん! 気持ちばかりが先走るタスクの頭を、ユイナが小気味よい音を立てて叩いた。 突然のことに、ミオも両手を口元にあてて驚いていた。 「ゆ、ユイナ……?」 「てめ、なにする!」 顔を真っ赤にして、タスクは怒鳴った。 「ばか! 先に玉串の榊の枝を採りに行くんでしょ! あたしたちの最大の武器は何? ミオの祓えなんだよ!」 人差し指をタスクの鼻先に突きつけ、ユイナはぽんぽんとまくし立てる。 「だいだい焦りすぎ! 失敗できないんだよ? 判ってる?」 「判ってるよっ!」 タスクの声が響く。 「判ってるから焦るんだろうが! とっととカズトを見つけねぇと! これ以上、あいつにバカなこと……!」 「ミオ」 「え? あ、はい!」 このタイミングで名を呼ばれただけで、ミオはユイナが求めていることが判ったらしい。 ばしゃああっと術で呼ばれた水がタスクの頭にかけられる。 「わっぷ!」 「もう、ちょっとは頭を冷やして」 「……え?」 全身ぐしょぐしょに濡れて、タスクは困ったように幼なじみを見た。 紅潮していた顔色が、元に戻っている。 「あたしたちが焦ってないとでも思う? そんなわけないでしょ? あたしたちの知ってるカズトは、もし自分のせいであたしたちが死んだら、絶対とってもとっても悲しむよ。自分のことを一生許せなくなるよ。あたし、カズトにそんな思いはさせたくないの」 少し静かな声で、ユイナは言った。 先程までと違い、大きな声を出さなくてもタスクの心には届くからだ。 「それに、あたしだってまだ死にたくないしね。親より早くなんて、絶対に嫌。もちろん、タスクとミオにも死んでほしくないよ。 だからこそ、あたしは生きて帰れるように最低限の準備くらいはしないと」 「………………」 ユイナが『死にたくない』と言ったとき、ミオはぴくりと指先を震えさせ、静かにまぶたを閉じた。 この数ヶ月、海の果てにある根の国に行きたいと思う暇すらなかったが、今でも自分は彼の地への願望を捨ててはいないのだろうか。 判らない、とミオは思う。 少なくとも、一刻を争って行きたいとは今は思っていない。 「…………ち」 小さく舌打ちして、タスクは水に濡れた髪を邪険にかきあげた。 「そうだな。焦るのと、無鉄砲になるのとは……違う。 悪ぃ。目が覚めたよ」 かなり自嘲的だったが、笑みがもれたことで少女二人は安堵の息を漏らした。 「じゃあとりあえず、榊の木に行こうぜ。 急ごう、今の声を聞きつけて、誰か来るかもしれねえからな」 三人顔を見合わせ頷いて、今度は静かに駆けだした。
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