無数のかがり火が、荘厳な神殿を赤々と照らしだす。 火に照らされているのは建物だけではない。その周囲に配置された、無数の祝(はふり )達もである。 「……本当に来るのかよ」 派閥を問わない人の群れの中で、タスクは小さく呟いた。 「この警備だものね。普通に考えれば難しいけど……」 その声を聞いたのはその幼なじみだけだったのだろう。ユイナがやはり小声で答える。 今は仕事中だから、さすがに私語は憚られるのだ。 「けど、奴は人間の常識を越える。こんな警備、屁でもねぇかもな」 闇の中、赤く不気味に浮かびあがる神殿を、タスクは見た。 彼等がいるのはこのクニを護る最高神、太陽の女神アマツヒルメノカミを祀る神殿の垣のすぐ外側である。 この奥は尊皇がカミを祀る場。 クニの平安を、一年の豊穣を、千歳の繁栄を、万歳の安寧をーーすべての民の願いを背負い、ただ一人、尊皇が祈るための場所である。 日常の祈りは皇宮で捧げられるが、年に数度の神事はこの場所で執り行われる。 ここには、ご神体として一枚の鏡が納められている。 銅鏡の丸い形、光を反射する様は太陽に通じ、巷にある鏡も神聖な物とされているが、アマツヒルメノカミのご神体となればその格が違う。 見た者に過去や未来の光景を見せるという、神秘の鏡。いわく、八千代の鏡。 「そうね。スメラは影に溶けることができるんだもの。夜の闇なんて、隠れたい放題かも」 ユイナが不安そうに篝火の煙で霞む夜空を見上げた。 今宵は朔。 月の神は、スメラの味方を決め込んででもいるのだろうか。 月神の姉たるカミの御霊代、八千代の鏡を不遜にも盗むと宣言したというスメラの。 「……………………。 中の連中だって、俺らのことはアテにしちゃいないだろうぜ」 黙ると、パチパチと火が爆ぜる音が耳につく。 この火も、警備をする祝のための灯りや防寒のためというよりも、火の持つ破邪の力を借りるという意味合いの方が強い。 鬼女の姿が確認されているため、スメラはオニという考えが主流になっている。 オニは根の国、黄泉で生じた知的生命だ。 カミに護られた清浄な世界で生まれたヒトに対し、穢れの中で育まれた妖(あやかし)の霊長。それがオニ。そう伝えられている。 卑怯で狡猾で、刃のごとき心を持ち、ヒトを騙し、傷つけ、殺し、喰らう。力は強く、穢れの扱いに長け、この世の疫病や災害はオニの仕業とも言われる。彼等の所業という証拠はないけれど。 その皇(スメラ)となれば、実力はいかほどのものか。 神官の最下級・祝ごときが敵うなどと、お偉方は思うまい。 「だけど……奴は許せねぇ」 スメラが社会をどうしようとしているとか、そういうことはよく知らない。目的を知るはずの朝廷が黙したままだから判らない。 ただ、自分の友を何度も危険な目に遭わせた。 タスクには、それがもっとも許すべからざることだった。
一方、神殿の内部には邪を祓うための香が、濃密にすぎるほど立ちこめていた。 禰宜(ねぎ)以上の神官達による厳かな祝詞の唱和によって、極限にまで場の空気は清められている。神職ではない人間がこの場にいれば、あまりの清浄さに魂が耐えきれず、昏倒したことだろう。 強すぎる光は目を灼くように、神聖すぎる場もヒトにとっては毒なのだ。 その祝詞を聴きながら、ミオは魔の進入を防ぐための白米を撒いていた。 彼女のような禰宜でも成り立ての経験も実績もないものは、白米を撒いたり、弓の弦を弾く鳴弦をしたりと、祝詞によって清められた空間を穢さないよう作業するか、祝詞を唱える神官達の補佐をしている。 外の祝達、篝火。神社の敷地を仕切る榊の垣。殿舎を取り巻く注連縄と破邪の儀式。そして内部の強烈な香と祝詞。 ほぼ神々の住まう天とほぼ変わらぬ清浄さ。普通に考えれば穢れより生じたオニなど入れるはずがない。 けれど、ミオはこのすべてが無駄だと感じていた。 何故、と聞かれると答えられない。 おそらくは、タマユラヒメノカミの意志。かのカミの考えが、漠然とミオの中に流れてくる。術を使うときなど、カミに近い場にいればいるほど、その傾向は顕著である。 だから、カミのクニと化したこの場で、清めの撒き米をしている今、カミの思いはより鮮烈に彼女に流れ込んでくる。 術を使うたび、カミを思うたびに彼女を苛む、あの滅びの幻視とともに。 「………………」 自分の手を離れ、パラパラと空を舞う白い小さな粒を目で追いながら、ミオは迷いを捨てられずにいた。 彼女を支援するカミは、スメラに八千代の鏡を盗らせよという。 その真意は判らない。 本当にその意志に従っていいものかも判断がつかない。 これこそがカミの意志だと、この警備を解くことを進言すべきか。あるいはどうせ意味のない警備なのだからと放置すべきか。 (どうして私は……) いつもこうなのだろうと、最年少禰宜は唇を噛む。 術を使えるようになれば何か変われるかもしれないと思っていた。けれど、実際は何も変わってはいない。 目の前に突きつけられた大きな現実の前に、ただただ己の小ささを実感するだけだ。 米を撒く手が、ふと止まる。 「………………。 ……来る」 ミオの目は、自然とそこに引き寄せられた。 御簾に隔てられた祭壇。そこに鎮座ましますご神体・八千代の鏡。 その横にありえぬはずの人影が降りた。 「盛大な出迎え、大儀である」 尊大な声が響いた。 一糸乱れぬ調和を保っていた祝詞が、乱れて……絶えた。 完全なる静寂が訪れ、それを微かに笑う、人影の気配。 「……スメラ…………」 その名を、もっとも若い禰宜が唱える。 それが沈黙を破り、禰宜や宮司達は混乱し、ざわめいた。 「静まれ」 その一言で、再び静寂が場を支配する。 何故、国賊の命に従ってしまったのか、理解できたものは一人もいまい。 魂が、逆らうことを許さなかった。肉体はそれに従わざるを得なかった。 ただ、それだけ。 (…………やはり、彼は) 漠然とした不安がミオの胸を支配する。 彼女は、彼女だけは圧倒的なカリスマに気圧されているわけではなかった。 人々がスメラに屈する理由も、まだ推測の域を出ないが判る、気がする。 けれど、認めてしまってよいものか。 認めてしまえば……今の彼女の日常が壊れてしまう。 いや、彼女の考えが間違っているという証左もあった。不確かで微かななものだけれど。 彼女がまた迷っている間に、スメラは鏡を手に取った。 「八千代の鏡……確かに」 彫刻を施された面ではなく、鏡面を見てスメラは鏡の真贋を見極めた。 そして、簾を巻き上げ、ゆっくりと社殿の中を歩きだす。 神職達はその行く手を阻むこともできず、むしろ道を明け渡しながら、ただ床に平伏していた。 あたかも尊皇の御幸に、人民が大地に伏してその尊顔を拝するように。 「……!」 以前カガチ山で見たときと同じ、無垢の仮面を着けた顔をミオに向けた。 その場で唯一、立ったままの二人の視線が絡み合う。 じり、と少女の足が半歩下がる。 「……さようなら」 「えっ?」 鬼の皇の囁きに、ミナギリの少女は我が耳を疑った。 けれど何事もなかったように、スメラは篝火に照らされた境内の庭へと降りていく。 「お……お待ちください! あなたは……!」 駆け寄るミオの目の前で、スメラの身体は影へと沈んでいった。 「あなたは……」 もう一度小さく呟いて、ミオはスメラの消えた地面を見つめていた。
「ん? なんだぁ?」 何やら境内が騒がしい。 「スメラが現れた! すぐに探せ!」 中から出てきた禰宜に、やや乱暴に命じられる。 外を探せというからには、現れたスメラは逃げたのだろう。 この包囲網に入って何事もなく出たからには、ご神体の鏡も盗っていったはずだ。 禰宜達が憚られて口にはできないだけで、クニを護る要が盗まれたということだ。 「ユイナ」 「うん」 短いやりとりでお互いの考えが判る。 幼なじみの少年少女は、スメラの行方を捜す祝達に混じり、夜の街へと駆けだした。
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