週があけ、月曜、火曜と何事もなく日々が過ぎ、風歌が転校してきて一週間が経った。 「ちょっとは慣れた?」 食べ終わった昼食のゴミを片づけながら、思いだしたように梓が訊ねた。 「う〜ん、皆といるのは楽しいよ! 授業は……イヤだけど」 「そっか。仕方ないね。私も、授業って苦手だもん」 あまりに正直な感想に苦笑を浮かべつつ、梓は風歌に同意する。 「ほんと? 梓ちゃんも、授業、嫌いなんだ?」 「そうだよ。でも、必要だからね。やっとかないと、将来困るし」 と言いつつ、大学受験以外にどう困るのか、あまり実感できていない梓である。 「ん〜難しい計算とか、化学式とか、何にいるの?」 「え? そりゃあ……受験に」 「じゅけん……?」 風歌は大学にいくことはないだろう。今回のような潜入捜査でもないかぎり。 生きるために必要だとは、彼女には思えなかった。故郷には一切ないものばかりだから。火が燃えるとき、酸素が炭素と結びついて二酸化炭素になる、などと知らなくても炎は扱えた。計算なんてできなくても、欲しいものは麓の村で、山で採った薬草や珍しい石と換えてもらえた。 この世界には、判らないことが多すぎる。 「………………」 「……どうしたの?」 急に黙り込み、うつむいた風歌を案じ、梓が顔をのぞきこむ。 「え? ああ……なんかね、思いだしちゃった。故郷のこと」 「チベットの?」 「うん……。あそこにいるときは、イヤでイヤで……誰かが連れだしてくれるの、実はこっそり願ってたんだけど。でも……変だね。今思いだすと……そんなに悪い所じゃないような気がしてきちゃって。 ……帰りたいよ」 浮かんできた涙をこらえようと、上を向いた風歌の視界に、よく晴れた青空が広がる。懐かしい空とは違い、どこかくすんだ青の空。 空さえも、懐かしい故郷を思いださせてはくれないのかと……風歌の大きな目から雫がこぼれる。 「……ふぅ……うっ……う、う、……ひっく」 「………………」 梓は慰める言葉もなく、その小さな体を優しく抱きしめた。
放課後、梓は風歌を買い物に誘った。 気分転換をさせてやりたい、というのが理由だが、ちょっと恥ずかしいので、『生徒会の資料整理で居残りしている美幸に差し入れを買う』と風歌には言ってある。 先日、生徒会長更科由利亜に言われていた資料整理の日が、今日なのだそうだ。 ただ、美幸一人でやらなければならなくなったそうで、憧れの『百合姫』に接する機会を逸した美幸はかなりふさぎ込んでいたが。 けれど、差し入れを持ち込むのはやりやすくなった。校内は菓子類持ち込み禁止なので、他の生徒に見られるのはまずい。その点、美幸一人なら気兼ねなく持っていける。ついでに、少しばかり手伝いもしなければならないだろうけど。 風歌はお菓子もあまり知らないらしく、チョコレートは胃が小さく、しかも基礎代謝が激しい彼女のために、知り合いが薦めてくれたから食べるようになったのだとか。だから、チョコレート以外のお菓子はほとんど食べたことがないらしい。 そんな彼女のために、チョコレートの他にも、ポテトチップスやポッキーも買った。ついでにペットボトルのジュースと紙コップ。 そしてそれを鞄に隠して準備万端、学校へと戻る。 校門をくぐり、梓は違和感に眉を寄せた。 「……? どうしたんだろ? 今日はなんか……?」 「え? なに?」 まだ学校に来て日が浅く、放課後はほとんど残ったことのない風歌にはピンとこないようだが、静かすぎる。ただ、彼女もなにかを感じてはいるらしい。いつにもまして、梓に張りつくように歩いている。 「部活がね……今日はどこも休みなのかな?」 一度寮に帰ってから買い物などをしていたために、案外遅くなってしまったとはいえ、いつもならまだ部活動をしている時間だ。 にも関わらず、グラウンドには人の影はなく、体育館も静まりかえっている。 「まぁ……そういうことも、あるかな?」 梓は勝手に一人で納得し、またすたすたと歩き始める。もうすでに、静かすぎる学舎に何の疑問も抱いていなかった。 「梓ちゃん……ほんとに、だいじょぶ……?」 「ん? なにが? 何もないよ、学校の中だし」 不安そうな風歌に笑いかけ、手をつないでやる。 そして二人は、生徒会室へと向かった。
「ねえ……」 風歌が梓にしがみつく。 いや、ずっとしがみついているのだが、梓の袖を握る力が強くなった。 「やっぱり、なんか……怖いよ……」 「放課後の学校って、なんかがらんとしてて確かにちょっと不気味ね。でもそれって、昼間たくさん人がいるときとのギャップじゃないかな。人のいない遊園地は怖いっていうし。 大丈夫だよ、もうすぐ生徒会室だから。あそこに行けば美幸ちゃんもいるし、怖くなんかないって、ね?」 「ん……」 廊下の突き当たりに『生徒会室』と書かれたプレートが見える。 風歌には、その先にあるものが処刑台のように思えてならなかった。 「……あれ?」 その生徒会室の扉が開く。 中から現れたのは。 「美幸ちゃ〜ん!」 見慣れた友の姿に、梓は大きく手を振った。 「……あれ?」 聞こえてないはずはない、見えていないはずもないのに、美幸は無反応だ。 「どうしたの、かな?」 風歌も不思議そうに呟いた。 そんな会話を交わしている間にも、美幸は廊下を曲がり、階段に向かう。 「あ、待ってよ〜!」 梓と風歌は駆け足で美幸に追いつき、その腕を掴んでようやく、階段を昇ろうとする彼女の動きを止めた。 生徒会室は最上階にある。これより上には、屋上しかないはずなのだが。 「どうしたの? 資料の整理、終わった?」 「…………まだ、途中よ」 美幸は淡々と言いながら、階段を下りる。 何のために上を目指していたのか、判らないままだ。 「手伝ってくれるの?」 「え? ああ……ちょっとは手伝おうかなって思ってたけど。それより、これ、美幸ちゃん好きでしょ?」 機械的に会話を進める美幸に対し、梓は戸惑いながらもいつものように話そうとしている。 「じゃあ……戻りましょうか」 好きな菓子のパッケージを見せられても笑顔を見せるわけでもなく、美幸は生徒会室へと戻る。 その手がドアノブにかかった瞬間。 「だめっ!」 風歌が、美幸と梓の手を引いて、ドアから距離をとった。 「え? ……きゃああああああ!!!!」 ドアが紙のように破られ、その奥から黒い何かが少女達を襲う。 黒いのではない、あれは『闇』そのもの。 自分の悲鳴をどこか遠くに聞きながら、梓の直感はそう告げていた。
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