「あ!」 更衣室へ向かう途中、風歌が大声を上げた。 「どうしたの?」 「えへへ。体操服、忘れて来ちゃった」 苦笑を浮かべる風歌。そんな顔も可愛いが、体操服なしでは次の体育の授業が受けられない。 「ええ〜!?」 「早くとっておいでよ。……っていうか、一緒に行こうか?」 まだ校内に不案内な風歌を気遣って、梓が同行を申し出る。 「ううん、だいじょぶ! 何とかなるよ! 迷ったら、人に聞くし」 「そう?」 「うん! じゃ後でね!」 不安そうな梓を尻目に、風歌は元気よく、どこか幼児のような走り方で教室へと戻っていった。
「あう〜。やっぱり迷っちゃった……」 誰かに聞けばいいと気楽に思っていたが、どういうわけか廊下に人の姿はない。 「ええと……」 「……どうなさいました?」 「ひゃっ! ……ああ……、たしか……」 「更科由利亜ですわ」 風歌に声をかけてきた生徒会長は、婉然と微笑んだ。 同時に、何やら甘い香りが周囲に広がる。 「あの……更衣室……」 ちょっと腰が引け気味に、それでも風歌は勇気を奮い起こして訊ねた。 「……案内してあげましょうか?」 提案の声は優しげで、風歌も昨日会ったときに怯えたことなど忘れ、思わず頷いていた。 「え? いいの? ……っ!」 だが、由利亜の目を見て、その表情が恐怖に固まる。 何が怖いのか自分でも判らないが、それでも風歌は猛烈に由利亜が怖かった。 「でも……いい。教えてくれるだけで、いいから」 数センチ、足をズリズリと後に下げつつ、蛇に睨まれた蛙のように硬直している。 「……そう。そこの階段を下りて、廊下を右に行けば更衣室ですわ」 「あ、ありがとう!」 ふぅっと由利亜の視線が外れ、風歌は逃げるように示された方向へと走った。
ばたん! 激しく扉が開かれ、閉じる。 「遅かったじゃない、風歌。……どうしたの?」 すっかり着替え終わった梓達は、風歌の到着を待っていてくれたらしい。 「怖い……あたし、あの人……怖いよ……」 ガタガタと震える風歌の姿に、梓達は驚いて顔を見合わせた。
「……落ち着いた?」 一番遅れてグラウンド三周を走り終えた風歌に、梓は話しかけた。 風歌は、走るのは幼児走りで驚くほど遅いのだが、不思議と息は乱れていない。手を抜いて走っているわけではなさそうなのだが。対する梓は実はかなり息も絶え絶えだ。元々体育は苦手な上に、持久力がまるでないのである。 「……うん」 もう風歌の顔に恐怖はない。多少の不安は残っているようだけれど、人の話は聞けるようだ。 「何があったの?」 「ゆりひめ……って皆が呼んでた人、あの人に会ったの。最初は平気だったんだけど、目を見たら……怖くて」 ゆるゆると揺れる瞳で梓を見上げてくる。 あまりに可愛くて、仔犬や仔猫を見たときのような感覚に襲われるが、梓は理性を総動員して冷静を保った。 「別に、ひどいことされたわけじゃ、ないんでしょ?」 「そうだけど……」 話しながら、列に加わる。 今体育では走り高跳びをしている。背面で飛ぶのだが、梓はこれがまた苦手だった。身体をうまくねじれないのである。 「気のせいだよ、百合姫は誰にでも優しいっていうし。風歌をいじめたりしないって。ね?」 「うん……」 おずおずと風歌は頷いたが、納得したわけではなさそうだ。 「次、吉永!」 「あ、はい!」 いつのまにか順番が回ってきていたらしい。教師に怒られて、梓は助走を始めた。 バーの近くまで勢いよく走り……跳ぶ! ボスン! 「ぎゃん!」 途中で引っかけたバーが、マットに沈んだ梓の上に落ちてくる。 「何やっても苦手みたいだな、吉永は」 「うう〜、すいません……」 苦笑を浮かべる教師に反論できない。 梓はもそもそとマットから降りた。 「次、え〜と、羽鳥、だったか?」 「は〜い」 元気よく返事した風歌は、教師が直したバーに向かって駆ける。やはりポテポテとした走り方なので、助走の勢いは期待できそうにない。 だが、意外にも彼女は軽々とバーを飛び越えた。身長の低さを考えれば、かなりの跳躍力だ。 そしてマットに落ちる。 彼女を受け止めたマットは、ほとんど沈まない。いくら風歌が小柄でも、体重や落下の勢いを考えれば、もう少し沈んでも良さそうなものだが。 「えへへ〜」 飛べたことが嬉しかったのか、笑顔でマットから降りる。 「すごいじゃない!」 「そう? すごい?」 梓に誉められた風歌は、口の前で両手の指先を軽く絡ませ、うふふと笑い、照れくささを正直に表現している。 「運動神経、いいんだねえ。走るの遅いから、駄目なのかと思ったけど」 「えへへ。走ること、あんまりなかったから」 急ぐときは飛んでいたなど、口が裂けても言えないが。 「ふぅん? なんにせよ、楽しそうだからよかったよ。 他の授業中、なんか拷問受けてるみたいな顔してるから」 「あ、心配かけてる? ごめんね?」 「いいのいいの。心配するのも友達の特権。ね?」 「うん!」 梓が少々不器用なウインクをしてみせると、風歌は甘える仔猫のように体をすり寄せた。 「そこ! サボらない!」 「わ! すみませ〜ん!」 教師に怒られ、慌てて列に戻る。 そして、二人は顔を見合わせてくすくすと笑いあった。
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