克樹は窓から下を見下ろし、連れだって帰っていく風歌と聖良を見送っていた。 「………………」 先ほどまでの彼女たちとの会話を、頭の中で整理していく。 彼本人としては、何をするにしても積極的にだとか、熱心にだとかするつもりはない。周囲が煙たがるから口には出さないが、『自分はやはり死んだ人間』なのだ。 一族の中で存在を消され、一族を名のることを禁じられ、それまでの名も取り上げられた自分。今更、何を望むというのか。 けれど、克樹自身の意図にかかわらず、幼い頃より受けた訓練は彼の身体を突き動かす。慣れない世界での情報収集も、効率よくこなしている。そしてその情報の蓄積および分析も、スムーズに進められている。 もっとも、彼のうちのどこかで、そのずれは齟齬を来しているかもしれない。 「………………」 克樹は空を見上げた。 曇っているわけでもないのに暗澹とした夜空は、ただ冷たく彼の視線を受け流している。 「不安になるのは……導くべき星がないからか? ……馬鹿馬鹿しい。この世界の星は、僕たちの世界の星とは違う……違うはずだ。それに……星に宿る神々も、ここにはいない」 彼が培った常識といってもいい知識では、星は神の化身だ。神々は星に宿り、その運行を以て、人々に宇宙の大道を示す。それはすなわち運命であり、未来である。人の目指すべき真理でもある。 ここには、それがない。 「それでも人は……『生きなければ』ならないんだな」
「おっふろ〜おっふろ〜」 かなり適当な節回しで歌いながら、風歌は浴場に入った。 「よかった〜誰もいないや」 普通の入浴時間は過ぎている。いなくて当然といえば当然だが。 彼女の故郷には、水浴びはあっても、温かい湯につかる入浴の習慣はなかった。だが、『ここ』に来て二ヶ月、慣れると気持ちがいいので気に入っている。 ただ、風歌には人と一緒に入りたくない事情があった。 タオルを巻いた背中に、二本の切れ目が入っているのが見える。もちろん血が流れているわけではない。背骨を挟むように、内側に潜り込むような切れ込みがあるのだ。 それを、何も知らない他人に見せるわけにはいかない。 「ついでだし……洗っておこうかな?」 風歌はタオルを取り、背中に『力』を注ぎ込む。 が、そのとき。 ガラララッ。 「!」 「誰かいるの?」 中年の女性の声が響く。 「え? あ、うん……じゃなくて、はい!」 慌ててタオルで身体を隠す。 「……入浴時間は過ぎているはずよ」 寮の管理人の女性のようだ。少し叱るような口調である。 「ご、ごめ……っと〜、すみません、用事をしてて……」 「……まあ、仕方ないわね。お風呂あがったら、寮母室まで来てちょうだい。ここの鍵を閉めなきゃいけないから」 「はい……」 再びガラガラという音がして、戸が閉まる。 「はぁ〜〜」 風歌の背に、桃色の翼が広がった。 「危なかった……」 翼を広げる途中で止めるのは、実はかなり労力が必要なのである。風歌は浴槽にへたり込んだ。 「……ここでもやっぱり……あたしは、人と違うっていう目で見られることを……怖がり続けなきゃ、いけないのかな」 ピンクの翼がばさり、と小さく羽ばたいた。
****ヘイヴァニア***********************
杖を片手に、ここに来て初めて小屋を出たツォナムを、白き峻嶺がのしかかるような圧迫感を伴って見下ろしていた。 空の青と山を覆う雪の白とのコントラストが美しい。 ラクシェの家に世話になって十日が経った。ようやく、今日診察に来たラトから外出許可と、杖をもらった。 そして、ようやく自分がどんな場所にいるかを知った。 空は近くに感じることができるけれど、どこまでも吸い込まれていきそうなほど深い。下界から遮断するかのように、傲然と山々がそびえている。 「………………」 それを見て、ツォナムは怖い、と思った。帝国の玉座に座る人ーー彼の伯父ーーと同じ種類の怖さがある。もっとも、こちらの山々の方が遥かに怖ろしい。 振り返れば、遥か眼下まで地面が続いているのが見える。それは雲の中に途切れて消え、薄く広がる雲は太陽の光を受けて白く輝いていた。その雲の海に浮かぶ島のように、所々に青灰色の山の頂が顔を出していた。 自分はなんて小さいんだろうと、思い知る。この雄大な大地の中で、自分など小さな点に過ぎない。この世界で、自分という小さな存在が消えても、誰も気にしないだろう。故郷にいたころならば、大勢の人間にかしずかれ、自分が小さいなどと、考えたこともなかった。 ラクシェやラトに語った、彼が記憶喪失というのは無論、嘘である。 細かな事情を説明するより、何も覚えていないことにした方が楽なのでそう言ったにすぎない。どちらにせよ、もう二度と一族の元に帰ることはできないし、一族を名のることすら許されない。 ツォナムが人間の意識を圧倒する景色に飲まれていると、頭上でバサバサという音がした。普通の鳥にしては羽音が大きい。 見上げたツォナムの目に飛び込んだのは、黄緑色の翼を備えた小柄な男性だった。それが、鳥のように飛んでいる。 「そうか、ここは……夢翼族の集落か。たしか現地の言葉で……ニィラム族」
二千年前とも三千年前ともいわれている。 この世に大厄災が起きた。 世界規模の洪水、地を割る大地震、火山の噴火、天から星が降った、各地の伝承は様々だ。何にせよ、当時の人口の八割が死んだと伝説はいうから、想像を絶することが起きたのは間違いないだろう。 滅びを待つばかりだった人類は、助けを申し出た神々にすがった。 様々な動物の姿をした神々は、それぞれの力を人に授けると約束した。代償として、自分たちを崇めることを条件に。 そしてあるものは魚のヒレとエラを得て海へと消えた。あるものは大地を抉る鋭い爪で地中へと消えた。あるものは強靱な生命力で災害の残る大地に残った。あるものは、鳥の翼を得て大空へと逃れた。 神は動物の能力だけでなく、炎や水や、その他様々な力を与え、大厄災後の民族争いにも大きく影響した。 ツォナムの生まれた部族・龍師族は、この大地最強の生き物である竜の神の力を受け入れ、その圧倒的な力を以て大陸の東半分を制圧し、帝国の中枢を担っている。逆に、このニィラムの民は非力故、このような高地まで追いやられたのだろう。
この世界では、神に与えられた力で人は生きている。 (ならば……その神からの恩寵を失った自分は、どうなるのだろうか) 龍神に与えられた力は少々特殊で、子供は卵を抱えて生まれてくる。その卵から孵った竜が、その人間の半身となり、人間の寿命が尽きるまで人間と共に生き、その力となり……人間の死と共にいずこかへと去っていく。一説によると、龍神は繁殖能力の低い竜の代わりに、人に、人間と共に竜を生ませているのだとか。 ツォナムーーロン・カーシューーはその竜を喪った。 何が起きたのか、そこだけは本当に覚えていない。よほどショッキングな出来事があったのだろう。あるいは、竜が滅びた事実こそが、彼には受け入れがたい事実だったのかも。 竜の死体があったわけではないから、唐突に半身たる竜が消えた事実と喪失感だけがある。 なんにせよ、竜を喪ったものは一族を追放される。 一族を名のることも許されず、二度と帝都に帰ることもできない。一族の籍からは抹消され、まさしく死人と同じ扱いだ。 (……誰もが僕を忘れる。墓すらないから、死者よりも思いだしてもらえないだろうな。帝国の歴史的には、僕が……カーシュという人間が即位する可能性がなくなって……) 一月ほど前に現皇帝の一人息子が病で亡くなったときには、次の皇太子候補として有力視されていたのが嘘のようだ。 (そして……この広い大地のどこかで、僕の肉体は朽ちていくのだろう。誰にも看取られないまま……) 泣けてくるかと思ったが、不思議と涙は出てこなかった。 男が泣くのは恥だとする教えが身に染みついているのか。それとも自分は玉座にも、一族の一員であることにも実は執着がなかったのか。 竜を亡くした瞬間に、彼自身が全てを諦めてしまったのだと、まだ彼は自覚できていなかった。それに気づく余裕さえ、彼にはなかった。 再びバサバサと羽音が近づく。 この十日間、感じ続けた気配なので、誰が近づいているのかは判っていた。ツォナムはゆっくりと空を見上げた。 「あ、もう起きて、大丈夫なの?」 「ああ……杖は手放せないけれどな」 ラクシェは地面に降り立ち、翼を背に戻した。 その瞬間、周囲の気が変わった。 少し離れた家々、その近く、あるいは中で仕事をしている女達がこちらに向ける嫌悪の感情が、ピリピリとした刺すような波長となって感じられる。 気配を読むことに長けたツォナムだから察知できた。だが、ラクシェも気づいているらしい。気配とはまた別の、長年悪意を受け続けた者特有の勘で。 「ごめんね……。あたしといると、村の人に嫌われちゃう」 最初に会ったときは無垢な笑顔を見せていたのに、今は決まり悪げな弱々しい笑みに変わっている。 「薬草……採ってきたから。ラトさんに渡さなきゃ。ツォナムも、治療、途中でしょ?」 細い腕でツォナムの身体をぐいぐいと押し、家の中へと戻ろうとする。 この無邪気で親切で、少々気弱らしい少女の何が、敵意を集めているのか。判らないままツォナムは治療の続きを受けに戻った。
*********************************
|
|