****ヘイヴァニア***********************
目を開けると、木の天井が見えた。 「ここは……?」 身体を起こす。予想したような目眩や頭痛は起こらなかった。 起きたのは、十七、十八歳の少年だ。民族によっては成人と見なされる年齢でもある。抜けるような白い肌に上品な顔立ち。彼を十人に見せれば十人が『綺麗だ』と評するであろう。 だが、笑えばどんな女性でも籠絡できそうなその顔に、今は深い苦悩が刻まれている。 「…………」 少年は、自分の身体を確認し、小さく眉をひそめた。 左足が折れている。他にも裂傷がいくつか。適切な処置がなされているから、すぐに治るだろうけれど。 改めて、室内を見回す。 低い天井に狭い室内。まるで牢獄のようだと、彼は思った。 けれど牢獄とは違い、部屋も、彼が寝ていた布団も清潔そうだ。 「誰かに……助けられたのか」 よく見ると、彼が寝ていた寝台も小さい。よほど小柄な人物の部屋……子供のための部屋だろうか。 助けられたのは、幸運と考えるべきだろう。彼は、捨てられたのだから。故郷より遥か遠く、知り合いのいない土地に、無一文・着の身着のままで。 けれど、彼はその幸運を感謝する気はなかった。 「いまさら……何を得たところで……。 僕は……死んだ人間なのだから」 すべてを諦めた口調で、呟く。 聞く者がいないのにわざわざ声に出したのは、ただの独り言か、それとも己に言い聞かせるためか。 「!」 人の気配がする。 どんな心理状態でも、幼い頃から叩きこまれた感覚は変わらず働いていることに、彼は自嘲の笑みを浮かべる。 近づいているのは、小柄な女だ。まだ子供だろう。それも、鍛錬などしたことのないと思われる動き。警戒するほどではない。 もっとも、鍛錬などに関わりなく、恐ろしい力を持った相手がいることは判っているが……ほとんどのことなら、対応できる自信が彼にはあった。もし対応しきれずに死んだとしても、それはそれで惜しくない。 そんなことを考えていると、建付の悪い扉を開き、女の子が一人入ってくる。 やはり小柄で、ただし想像していたのとは違い、成長期の過ぎた少女を、そのまま一割五分ほど縮小したような印象だ。小柄なのだが、頭身はさほど低くないのである。 「あ! 気がついた? よかった〜。ずっと目を覚まさないから、心配してたんだよ?」 首をかしげる様が小動物を思わせる、可愛い部類に入る少女だ。少年に言わせれば、よく焼けた肌は美とはほど遠いし、物腰には礼儀作法の欠片もないのだが。 「あたし、ラクパ・シェエっていうの。略してラクシェって、呼んで? それで、あなたのお名前は?」 少女にしてみれば、それは当然の問いだったろう。けれど、今、少年にとっては都合の悪い質問の一つだった。 「……覚えていないな」 「え?」 「覚えていない、と言ったんだ」 ことさらに素っ気なく言うのは、罪悪感があるからだろう。本当に覚えていないのなら、もっと戸惑うはずだ。 「記憶喪失、というのを聞いたことがないか?」 自分で記憶喪失を主張する、記憶喪失者も珍しい。自分でそう思いつつも、目の前の少女の無理解ぶりを見ていると、仕方がないと思う。 「ん〜、ないよ!」 明るくきっぱり言い放つラクシェに、少年は軽い頭痛を覚えた。 (だが……仕方ないか。帝国の影響力の及ぶ、もっとも辺境のはずだ) 辺境に来たのは初めてだが、話にはいろいろと聞いている。ものを手づかみで食べるだとか、病気を呪術で治すだとか。そういところでは無論教育のための施設もなく、読み書きもできない住人が大半だとか。 そんな少年の心のつぶやきなど知らぬげに、ラクシェはいいことを思いついたように、にっこりと笑った。 「ね! 名前、ないと不便でしょ? あたしが付けて、いい?」 「!」 ラクシェがきゅっと少年に身を寄せる。彼女にしてみれば、何気ない仕草だったのだろうが、少年は弾けたように身体を引き離した。 「! ……っつう…………」 傷が痛む。さすがに、開いたりはしていないようだが。 「…………あ、ごめんね? それで、どうかな?」 少年の動きにしばし考え込んだ少女は身体の位置を元に戻すと、殊更に大きな笑顔を見せ、何事もなかったように続けた。 「名前、つけていい?」 「ああ……」 どうせ仮の名だから、変な名前を付けられてもかまうまい、と少年は承諾した。 「ん〜と、じゃあねじゃあね……。 ツォナム! ツォナムでどう?」 「ツォナム?」 「そ! ツォは湖で、ナムは空! あなたを拾ったの、村の人たちが『天空の湖』って呼んでる所なんだ。だから、ツォナム。どう?」 「ああ……それでいい」 ツォナムと名付けられた少年は、他人のことのような口調でそう言った。 (どうせ……今更名前など、記号に過ぎないし……) 「! いっけない! ラトさん、あなたが目を覚ましたら呼んでって言ってたのに! ちょっと待っててね!」 ぽてぽてという擬音語が付きそうな、バランスの悪い走り方でラクシェは部屋を出て行く。 「ふう……」 女といるのは、どうも落ち着かない。ひとえに、子供の頃から男女を同席させない、厳しい倫理観を持つ一族の中で育ったからだが。 これで、もし『ラト』という人物まで女なら……。 「あら、元気そうね。安心したわ」 「…………」 女だったようだ。 「あら、なにか不満がありそうな顔ね? 見たところ、あなたは帝国の人のようだし、『女ごとき』に自分の身体を任せるのは不安かもしれないけれど、この村には……というより、この近辺には私しか医者はいないのよ。 ああ、安心して。呪術で治そうっていうわけじゃないから」 その女医は燃えるような長い赤毛の持ち主で、ラクシェと異なり、小さくはない。ツォナムの一族の女性と変わらない体格の持ち主だ。それに白い肌も。 「ラクシェちゃん、ちょっと、サルケの薬草を探してきてくれない?」 「え? いいよ! サルケだね?」 女医の頼みを快く引き受けると、ラクシェは相変わらずな足取りで去っていった。 「さて、もう判っているだろうけれど、私は『ラト』って名のってるわ。『ツォナム』くん」 「…………」 ラトが言葉に含みを持たせているのには気づいていたが、ツォナムはあえて無視を決めた。 「ここはあの子……ラクシェの家よ。私の家でもよかったんだけど、部屋がなくてね。ここならラクシェの『家族だった』人たちの部屋もあるから」 ラトは診察するでもなく、やや楽しげにツォナムを見つめた。 「あなたの『記憶喪失』は、私にはどうにもならないわ。それをどうにかできるのは、あなただけ」 「……僕は……半身を亡くした。肉体の半分を失って、生きていられる人間はいないだろう。だから僕は……死者だ。 死者に、過去の記憶などいらない。ただ人知れず朽ちて、誰からも忘れ去られる……それだけだ」 ツォナムはラトと顔を合わせずに、まっすぐに無限の彼方を見つめて呟いた。 その様子に、ラトは苦笑とともにため息を漏らす。 「まあ、いいわ。どっちみち、しばらくここにいることになるでしょう? その足で、山を下りるのは無理だものね。高山病の危険もあるし……。 でね、治療費代わりの私のお願い。 ここにいる間だけでいいの。あの子の家族になってあげて。あの子はこの家に一人で住んでる。それに……村を見て回ればどうせ判るから言うけど、ラクシェはこの村では禁忌に等しいほどに忌避されているの。私が来てからは、私があの子の面倒を見ているから、露骨な嫌がらせはされていないみたいだけれど、それでもあの子には居場所が少ないのよ」 「…………家族……とはいかないが。嫌う理由がなければ、嫌うつもりはない」 「そう? じゃあ、お願いね」 ラトは柔らかく微笑んだ。
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