夜、克樹はワンルームマンションの一室で、一人書類を見ていた。 その表情は真剣そのものだが……どこか暗い影がある。他人には知れない虚無から生じる、小さな陰り。 「…………」 彼は黙って立ち上がると、玄関に向かった。 ピンポーン 克樹が玄関に辿りついた瞬間、タイミングを見計らったようにチャイムが鳴り、克樹は当然のように来客を出迎える。 「こんばんは。私が来るの、よく判ったわね」 訪れたのは啓明女子学校の新人司書、河原聖良だ。 「……入って」 「ひょっとすると、気配を感じたとか、そういうのではなくて? 武術家ってそういうのが得意な人、多いものね。 あなたも武術は得意なのでしょう? 噂には聞いていてよ」 素っ気ない克樹に対して、聖良は一人しゃべり続けている。 「まぁ得意といっても、普通の人間でもあり得る程度、だから、私たちのメンバーから考えると、さして強いわけではないのでしょうけれど。でも、あなたにはそれ以上の力があるような気がするのよね……」 「……覚えてないな」 克樹はそっけなく言うと、元々座っていた場所に戻った。 「飲み物は、適当にいれてくれ」 「はいはい」 聖良は苦笑し、冷蔵庫からペットボトルの烏龍茶をとりだし、コップに注いだ。 「そういえば、あなた、風歌ちゃんに会うまでの記憶がないのだったわね?」 「………………」 克樹は答えない。 「……ふぅ。まあ、いいけれど。 ところで……この件に関して、なにか判った?」 「まだ、調べ始めたばかりだからな。新聞というのは日常使われているより、難しい日本語が使われているし……。 とにかく、今日見た範囲には啓明に関する記事はなかった」 「そう……。それは妙ね」 聖良は顎に指を添えて、考え込む仕草を見せた。 「この学校、資料を調べても入学者と卒業者の数が合わないのよ。中退者などを除いてもね。『自殺者が異様に多い』……この情報に間違いはなさそうなのだけれど」 「自殺にしろ、他の要因にしろ、学生が死ぬことが、ここでは珍しくはない……というわけではないよな?」 「そうよ。仮に自殺だとして……年に十人を超えている。マスコミだって騒ぐだろうし、自殺者が多い原因を解明しろとなるでしょうね。そんな学校、親が子供を通わせ続けるとも思えないし」 けれど新聞にはそのような記事はないというのだ。 「何より、私、生徒達に聞いたのよ。なにか事件が起きなかった?って。でも、皆口をそろえて『何もない』『平和すぎて退屈』だそうよ」 「いったい何が……」 「……魔法の気配を、微かにだけど感じたのよね。それが原因と決まったわけではないけれど、この学校で、この世界の常識を越えたなにかが起きているのは、間違いなさそうよ」 そのとき、外は真っ暗なのにも関わらず、ばさばさっという鳥の羽音が聞こえた。 克樹は立ちあがり、ガラガラと窓を開ける。 「ごめんね。食事、寮でとらないといけないから、遅くなっちゃった」 ベランダに風歌が立っている。タンクトップの上に厚手のカーディガンを羽織るという、少々変わったいでたちだ。 「……いや、かまわない。勝手に始めていたぞ」 「あ〜、ひっど〜い」 風歌は部屋にはいると適当に座り込んだ。 「それより、なにか変わったことはなかったか?」 風歌に今までの会話を伝えるつもりはないらしい。克樹は事務的に聞いた。 「ん〜、特には。だいたい、あたし、学校ってとこでおかしいことと、普通のこと、区別つかないよ?」 「ここに来て二ヶ月、この世界で異常なことくらい、判るだろう」 やや苛立ちをにじませて、それでも静かな声で克樹は訊ねる。 「う〜ん……。皆が好きっていう人、あたし、怖かったよ。なんで、皆あの人にいい気持ちをもてるのかな?」 しばし考えた風歌が、真剣な顔で言った言葉に、克樹は露骨に呆れた表情を見せた。 「……おまえの好き嫌いは聞いてない」 「でも……」 「仕方ないわ、まだ一日よ。私は一週間ここにいる。収穫に差があるのは当然ではなくて? 元いたところには、学校はなかったのでしょう? 慣れるまで時間はかかるわね」 聖良は優しい声で風歌に語りかける。風歌という少女が不安を大きく抱え込む性質と判っているのだ。それは克樹も知っているはずだが、彼がどうもそういう配慮は苦手なことも、聖良は判っている。 「うん……頑張るね。 ……やっぱり、聖良さんってラトさんに似てるな。優しくて、お姉さんって感じが」 えへへ、と照れたように笑う風歌を微笑ましく見つめ、聖良は克樹に向き直る。 『ラト』というのが誰なのかは知らないが、風歌の故郷で、いい思い出に繋がる人物なのだろう。 「それで、明日からも私は学校の資料を調べて、図書館に来た子達に話を聞けばいいのね? ……そうそう、忘れるところだったわ」 ぽんと手を打った聖良を、克樹と風歌はじっと見つめた。 軽い口調とは裏腹に、聖良の顔は真剣だったのだ。 「ここ、学校になる前は修道院だったらしいのよ。女性のためのね。日本だから、修道院なんてかなり珍しいんじゃないかしら……」 「いや、それより」 克樹の顔に深刻さが増す。 本物の聖職者が昔ここにいたとなると、今は仮定でしかないある可能性が高くなる。 「ええ、もちろん、その当時に封印されたものが蘇った、ということも考えられるわ。 もっとも、キリスト教の施設だからといって、ルシファやベルゼブルが封じられてた、なんてことはないと思うけれど」 「るしふぁ?」 「べるぜぶる?」 聞いたことのない単語に、克樹と風歌は揃って首をかしげた。 「ああ、この世界……というより、キリスト教の悪魔の名前よ。悪魔というよりサタンかしら。サタンは悪魔の支配者的な階級を示す言葉で……サタンと呼ばれるに相応しい悪魔はこの二人の他にもたくさんいるのよ。……ああ、でも、ベルゼブルもルシファも実は同じ存在で、それが悪魔の王、サタンの複数の顔だっていう説もあるから……」 「いや、そのキリスト教とやらの細かな話はいい。そんなにやばい代物なのか?」 さすがに話が長引き、さらには理解できない領域に踏み込もうとしている気配を察し、克樹は聖良を止めた。 「あら、そう? ん〜と……常識的に考えて人の手に負えるものではないわね。でも、本物のサタンじゃなく、人が創造したサタンなら、人に封印されることもあるかしら? それをいうなら、神にしろ悪魔にしろ、その実在を証明できた人間はいないのだから、そのすべてが想像の産物と言えるかもしれないけれど。 ベルゼブルはヘブライ語で『蝿の王』って意味だそうよ。そう聞くとあまり強そうに聞こえないけれど……昔は、死体に群がり、病気を媒介する蝿が悪霊に見えていたのでしょうね。 ルシファは神を裏切った、元最高位の天使だったらしいわよ。だからその力は絶大。彼こそがサタンだって話も聞いたことがあるわ。ルシファは、天使だった頃の名だ、ってね。ルシファというのはラテン語で『光をもたらす者』。一般には『明けの明星』の方が有名だけれど」 「『明けの明星』?!」 克樹が身を乗りだす。 「ええ、そうよ。……どうしたの?」 「明けの明星……この学校の名じゃないか」 「え?」 風歌も聖良も、克樹の言葉の意味を量りかねる。 「僕の国の言葉で、明けの明星を『啓明』といった。もっともかなり詩的な表現で、日常に使われることはないが……」 「まさか……偶然の一致でしょ? あたしたちの……克樹の故郷はこの地球上にはないんだし」 怯えた表情で風歌は二人の顔を見る。どっちにでもいい。安心できる言葉を言ってもらえれば。 「……でも……克樹君は漢字の知識といい、中国をモデルにしてあるようだし、中国語にもその言葉が実在するなら、偶然の一致とは言い切れないかもしれなくてね」 「………………」 三人は黙って顔を見合わせた。
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