黒い影は宙を漂い、虚ろな闇を形作る。 「まだ……完全には出てこれないのか?」 克樹の言葉を裏付けるように、聖良の血が床に滴るたびに、ほんの少しずつ、影はキリスト像からにじみでてきていた。聖良は慌てて、ハンカチを取りだし止血する。 そして、完全復活のための生け贄を探すかのように、教会いっぱいにゆるゆると広がっていく。 「くそ……っ」 相手が実体のない黒い霧では、いくら殴りつけても空気を殴っているようなものだ。 霧は克樹を通り過ぎ、横たえられた梓に近づいた。 「……!」 気味の悪さに動かぬ身体を強ばらせる。 梓の嫌悪感などお構いなしに、黒い霧は梓の身体をゆっくりと持ち上げた。先ほど、梓自身も克樹も動かすことができなかったというのに。 「やぁああ!」 ようやくもがく程度には動くようになった身体だが、地に足をつけられないのでは人間にとっては行動できないと同義だ。 「く……」 梓を取り戻そうとするが、克樹が手を伸ばしてもすでに梓は届かない位置まで上げられていた。文字通り、手も足も出せない。 さらに梓の眼前で、闇は凝固を始めた。槍の穂先のごとき形状に。刃の切っ先は、梓の心臓。 「やだやだやだやだやだ!!!」 目の前に突きつけられた死。これが初めてではないけれど、何度経験しても慣れるはずもない。 魔の穂先が梓の心臓めがけて駆ける…… ガシャアアアアアン!!! 派手な音と共に、キリスト教の聖人が描かれたステンドグラスが割れる。 そこから、小柄な人影が飛び込む。腕に闇に負けない黒い翼を纏い、悪意を固めて造られた刃から、梓を救う。 「風歌?!」 勢い余って強く床に叩きつけられつつも、梓は嬉しそうに友達の名を呼んだ。 「うん……!」 風歌は梓に笑いかけ、黒い翼の腕を広げる。すると炎の半球が現れ、風歌と梓を守るように包んだ。 黒い霧は、物理的攻撃は効かなくとも、熱さは感じるらしい。その触手を伸ばせずにいる。 同じ集落の人間に嫌忌され、風歌自身疎ましく思っていた黒い翼。それが今、二人を守っている。 「よし、風歌、そのまま梓を守っていろ!」 とりあえず、由利亜を無力化しようと駆けだした克樹だったが、彼がかの堕天使に辿りつくより早く、彼女は鎌で自身の腹を割いた。 「うふふふふ……。 わたくしの血で、我が主は復活なさる……! そう、それでこそ、わたくしの愛は成就される!」 傷は浅く、致命傷というほどではないが、血は大量に溢れた。人間の者とは違う、青い血。 黒い霧はその人ならぬ血に群がり、由利亜自身の傷口をも貪った。 「あははははははは……」 由利亜は、悦に入った表情で笑い続けている。 「………………」 おぞましさに目を背けたくなった克樹達だが、高笑いに紛れて聞こえてきたミシリ、という不吉な音に神経を研ぎすます。 音の源は…… 「そこか!」 視線の先で、キリスト像がひび割れる。 「再封印を……!」 聖良が封印の本を片手に、十字ハンマースタッフで魔法陣を描く。 だが、間に合わない。 人間の罪すべてを背負ったその姿が、無惨に砕かれる。 「しま……っ」 「……………………」 おののく克樹達の視線の先で、無言のまま一人の男が立ち上がる。背の高い逞しい青年で、端正な顔は白人的だが、その肌は浅黒い。宗教画で、双子の兄弟とされるルシファと大天使ミカエルが揃って描かれるとき、同じ顔に異なる膚の色で二人は表現されるという。まさにそのままの姿で、ルシファは現れた。 「ああ……。 我が主、偉大なるお方。夜明けの空に輝く気高き星!」 血を失い、元々白い肌をさらに白くさせた由利亜が感極まったように叫ぶ。だがそれさえも、ルシファにとっては興味の外のようだ。世界最高の彫刻家が手がけ、けれど魂を込めることを忘れた彫像のように、その生気のない整った顔に変化はない。 「………………」 無言のまま、堕天使の長は腕を振るった。 「きゃああ!」 それだけで、衝撃波で聖良の身体が吹き飛ぶ。したたかに壁に打ちつけられ、小さくうめいた。 「貴様……!」 ルシファを倒せずとも、その歩みを食い止めようと駆けだした克樹だったが、聖良と同じように衝撃波に襲われる。一撃目は耐えたものの、二度は耐えられず、やはりはじき飛ばされた。 「ぐぅ……」 叩きつけられた壁よりも、衝撃波自身の方が痛い。並の人間に比べれば頑健な克樹だが、二度も喰らったせいで頭が朦朧とする。 「……や…………」 ルシファは炎の盾に守られた二人の少女に近づいた。己への生け贄と判ったのだろうか。怯える二人の姿に喜びを感じている様子もなく、哀れみを抱くでもなく。ただ必要だから食事をとるように。 「いやぁ……」 二人を守る炎が強くなる。 だが、さらにルシファが近づくと、炎自身が恐れをなしたかのように、ふぅっと消えてしまった。 ガタガタと震える、無力な二人の少女を見下ろし、ルシファは再び腕を振りあげる。その手には鋭い爪。衝撃波で飛ばすのではなく、その爪で二人の柔らかな身体を引き裂くつもりか。 「やめてええ!」 叫ぶ風歌の願いも虚しく、爪を備えた手が振り下ろされる。 ざっ! 真っ赤な血と、黒い羽根が飛び散る。飛び散った羽根はボッと空中で燃えあがった。 「きゃあああああ!」 上げられた悲鳴は、梓、風歌、どちらのものだったか。 さらに振るわれる爪。血を流すためだけに、悲鳴を聞くためだけに、人間が家畜を屠殺するときよりもさらに何の感情もなく。 一撃一撃は致命傷になるような傷ではない。 だが、多くの血が流れている。さらに深い恐怖が二人の精神を苛んでいく。 いつしか、二人は悲鳴をあげることもできなくなり…… とどめを刺そうというのか、堕天使の王の手に、一振りの剣が現れた。 「…………」 やはり無言のまま、無表情のまま、若い生命をつみ取ろうとしている。 「や……め……」 よろよろと克樹が立ちあがる。聖良はまだ意識を飛ばしたままだ。 ルシファは克樹に一瞥すら与えず、剣を下ろす。 その動きは、やたらと緩慢に見えた。 剣に映る蝋燭の火。その揺らめきすら、克樹には見えたような気がした。 切っ先が、風歌の喉に迫る。
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