「チャペルに入ったのを確認したわ」 校門で克樹を待っていた聖良は月に浮かぶ十字架を指さした。 彼女は、いつものスーツ姿ではなく、どこのものともしれない衣装を着ている。この地球上のどの衣服とも異なるそれは、白を基調とした清楚なものであるが故に、神官衣と判る。 「ああ……。 ところで、封印の本は?」 「もちろん、持ってるわよ」 聖良は一冊の分厚い本を克樹に見せた。 実体化した物語は、本来あるべき姿にかえすため、白紙の本に封じ込まれる。元は人間の聖職者や霊能者といった者達が編みだした手法だが、今は物語から生じた魔法の使い手が、人間社会に迷惑を掛ける同類を封じるために使っている。 封じ込めるのに、対象の生死は関係ない。ただし、生ある者は本に封じられることを拒むことができる。封じ手との意志の力を比べ合うようなものだ。だから、相手と戦い、弱らせる必要性も往々にしてある。その過程で相手を殺してしまうこともあるが、そのときも死体を封じる。そのキャラクターが生みだされた設定次第では、稀に自然復活することもあり得るからだ。 「……行こう」 克樹と聖良は夜の学校を駆けだした。
「ふふふふふ……」 夜の静寂に覆われたチャペルの中は、数本の蝋燭と、月光を透かして仄かに浮かびあがるステンドグラスとで、幻想的に彩られていた。 十字架に掛けられたイエス像はもちろん、なんでもない並べられた椅子でさえも、どこか気高く見える。 だが、どこか甘い、淫靡な香りが漂う。 「もう、かなり封印は解けつつあるのだもの……直接血を捧げれば、目覚めてくださる……そうですわよね、我が主?」 黒いドレスを纏った由利亜がキリスト像を愛おしむように撫でる。 そこには、よほど注意しなければ気づかないほどの、かすかな継ぎ目があった。 「おつらいでしょう、あなたを裏切った、傲慢なる神の体内に閉じこめられるなど。わたくしが……お救いいたします」 ゆっくりと振り返った由利亜の視線の先に、梓が力無く横たわっていた。 「その前に……招かれざるお客様に、彼らに相応しい歓迎をいたしませんと」 由利亜がドアに向き合うと、教会の扉が大きく開かれ、克樹と聖良が駆け込んだ。 「ここは女子校ですのよ。司書とはいえ、職員が男子を連れ込むなど、感心できませんわね」 婉然と由利亜が笑う。 「それを言うなら、堕天使であるあなたが教会にいることのほうが、よほど問題なのではなくて? 昨夜、あなたの結界を解いて確信したわ。神を裏切りしものの力だと」 聖良は首からさげたクロスペンダントを外した。それは彼女の手の中でみるみる大きくなり、聖良の身長ほどにまで伸びた。 「私はキリスト教をモデルにした宗教のシスター。それも、あなたのような人間に危害を加える堕天使と戦うことを目的に特化された、修道戦士。あなたのような存在は、許せません」 「あら、奇遇ですわね。わたくしも、神の下僕を名のる輩は大嫌いですわ」 高らかに由利亜が笑う。その手に、巨大な鎌が現れた。 「私が梓の意識を戻しますから、克樹君は彼女を逃がせて」 聖良は床に巨大な十字架で複雑な文様を描く。描かれた文様は光り輝き、光は広がって梓を包み込んだ。 「さ、克樹君、早く! 我が主よ、あなたの使徒セーラ・リヴィエにご加護を!」 この世界には存在しない神に祈り、クロスハンマーを構えた。 そして、黒い影が振るった銀光を受け止める。 十字架型ハンマースタッフと巨大な鎌による激しい剣戟が始まった。 「梓!」 「う……」 名を呼ばれ、梓は苦しそうにまぶたを持ち上げる。 「歩けるか? 僕は聖良さんのサポートをしなければならないから、できれば自力で逃げてほしいんだが」 「え? いったい、何が……? え? なに、これ? 身体が動かない?!」 混乱し、梓は必死にもがこうとするが、首から下はぴくりとも動いてくれない。 しかもすぐ側では白い美女と黒い美少女が、巨大な十字架と鎌を振り回しているのだ。冷静でいられるはずがない。 「いや……! 克樹さん? なにが、どうなって……」 「仕方ないか……。!? …………なんてことだ」 克樹は梓を抱えようとしたのだが、やはり彼女の身体はビクともしない。根でも生えているかのようにしっかりと固定されている。 「甘いですわ! あなた方がくることなど、お見通しでしたのよ!」 後に飛び、聖良との間合いを開けた由利亜が、勝ち誇ったように叫ぶ。 「貴方がたは力をもっていますわ。こんなひ弱な人間どもとは違う、大きな力! それを捧げれば、ルシファ様は間違いなく甦ってくださる!」 「!」 予想はしていたが、想定はしていなかった悪魔の首領の名に、聖良の動きが止まる。 「まさか……ルシファが、ここに封じられているというの?」 無論、聖書や外伝、偽伝に出てくる本物ということはない。書物に記されている限り、それらが実体を得ることはない。 だが同時に、非常に有名であるがために、さまざまな作家がテーマとして選んでいる。書き手の数だけルシファが存在し、文字に記されなかった数多くのルシファの中には、無論実体を得たものもいただろう。 かつて、人間に封じられたのだろうから、聖良や克樹が恐れるほどのものではないのかもしれない。だが、本物のキリスト教の聖職者だったからこそ封印できたという可能性もある。そうなると、格闘技が使えるだけの克樹や、異教のシスターである聖良には、少々荷が重い。純粋に力で押さえ込まなければならなくなるからだ。 「我が主を呼び捨てにしないでいただきたいわ、神の奴隷。 わたくしが愛した、夜闇に輝く気高き星。闇の玉座に相応しい、あの方を」 由利亜は己の世界のルシファと、ここに封じられたルシファを混同している。いや、異なると解ったうえで、あえて自身を騙しているのかもしれないが。 「冗談ではないわ! そんなものを甦らせるなど……!」 聖良は再びハンマースタッフで文様を描いた。由利亜が間合いを開けたからこそできたことだ。 新たに描かれた魔法陣は大きく広がり、教会全体を覆った。 「これは、あなたの力を殺ぐ。覚悟なさい」 「ふ……これしきで、わたくしが音をあげるとでもお思いですの?」 強がってはいるが、由利亜はたしかに辛そうだ。鎌を構える腕が少し下に下がっている。 そして、再び打ち込んできた聖良に、今度は対等に渡り合うことができず、美しい堕天使は少しずつ後退していった。 どん、と由利亜の背が聖壇にぶつかる。 「覚悟なさい」 堕天使を追いつめ、大きくクロスハンマーを振りかぶった聖良の目の前から、由利亜の姿がかき消える。 「?!」 驚きで、バトルシスターの動きが止まる。 「後だっ!」 克樹が叫ぶが、聖良の反応は遅れた。 「うっ!」 突如聖良の背後に現れた黒い影が、小さな何かを聖良に刺す。 聖壇に置いてあった、蝋燭の立てられていない燭台だ。 ぽとぽと……と血が床に滴る。 「お生憎様。わたくし、影へと身を潜めることができますのよ。この程度の魔法陣では、封じきれなかったようですわね」 無論、その力も制限が大きくなっている。本当は、もっと遠くへ移動することもできるが、今は一、二メートル動くのが精一杯。もちろん、そんなことを懇切丁寧に教えてやるつもりは由利亜にはない。 それどころではないのだ。気配がする。愛しい人の気配がする。 「予定とは違ってしまいましたけれど。異教とはいえ聖職者の血はさぞかし喜んでいただけるはず……!」 由利亜がキリスト像を振り返った。 人間の罪を一身に背負った神の子の身体から、どす黒い影が溢れでる。 「……!」 「まずい……!」 封印が、解ける。
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