二人の少女が眠るはずのマンションの屋上で、夜の寒気をものともせず、克樹はじっと空を見上げていた。 相変わらずの、星の見えない夜空。 導いてくれるものはない。行動の指針となるものもない。かつての常識が通用しない、この世界。 すべてを、自分自身で決めなければならない世界。 今まで、全てが創造主たるこの世界のどこかにいる人間に決められていたと思うと少々癪に障るが……それでも、ある意味それは楽なことだった。 己で決めることの、なんと重責なことか。 それならやはり、あの世界でそうしてきたように、己は死人と、諦めてしまった方が楽ではないか。 命じられたことを淡々とこなすだけのほうが。 「………………」 自分の足下の建物から人が出ていく気配を感じ、克樹は道路を見下ろした。 寝間着代わりに聖良が用意した、トレーナーの上下姿のまま、ふらふらと歩いていく梓が見えた。 「………………」 思念で、学校の近辺を張っているはずの聖良に連絡する。 そして、彼自身、夢遊病者のような少女の後を追った。
「ん……」 肌寒さに風歌は目を覚ました。 「あれ……?」 きちんと掛けていたはずの布団がめくれあがり、隣に寝ているはずの梓がいない。 せまいワンルームマンションのことだ。トイレがあるはずのバスルームのドアも見えるが、曇りガラスがはめられた小さな窓に、電気の灯りは射していない。 「………………」 風歌の嫌な予感はよく当たるのだ。 彼女は窓を開け、外を見下ろす。 「あれは……」 街灯に照らされ、学校への道を歩く克樹の姿が見えた。
気配を感じることのできる克樹は、尾行に相手の姿が見えている必要はない。梓に、というより、梓を操っている相手に気取られないよう、充分に距離をおいて彼女の後をつけていた。 「ツォナム!」 この名で彼を呼ぶのは、この世界に一人しかいない。少々苛立ちを感じつつ、克樹は振り返った。 「おまえは戻れ。ここからは危険だ」 「梓ちゃんがいなくなってたよ。……知ってるんだよね? 梓ちゃんは囮? ひどいよ、そんなの! 梓ちゃんだって危ないのは一緒……」 必死の顔で、風歌は訴える。心の底から、友人を案ずる表情。 「判っている。彼女の安全は第一に確保する。 だいたい、梓の行動を敵が自由に操れるなら、僕たちがどう対処しようと、由利亜とやらには梓を殺すことが可能なんだ。今、僕たちが妨害すれば、その場で奴は彼女を殺す。それを防ぐには、梓に奴の居所まで案内させ、そのままなし崩しに戦いにもちこんだほうがいい。僕らが戦えば、梓が逃げる時間くらいは稼げる。 聖良さんの力はああいう敵には効果的だし、仮に僕らが負けても、増援を呼ぶくらいはできる。 おまえはかえって足手まといだし、僕の部屋で待っていろ」 そう言い残し、克樹は走り去った。そうされると、風歌には追いつけない。 「………………もう、あたしは……」 何かを考え込む顔で、風歌はその後姿を見送った。
****ヘイヴァニア***********************
村が燃えている。 ナクポ族が空を飛び、己の黒い羽根を落として、ニィラムの民の家々に火をつけているのだ。 反撃の手段を持たないニィラムの人々は悲鳴をあげ、押しのけあい、我先にと……逃げまどっている。 「まずい……。逃げるにしても、バラバラに逃げるのでは敵の思うつぼだ」 「でも……。どうしたらいいの?」 ツォナムとラクシェは村の惨状を為すすべもなく見ていた。 避難誘導くらいはしたいのだが、ツォナムはこのあたりの地理を知らない。まして、まだ走ることもできないのだ。混乱し、浮き足立っている人間が、そんなよそ者の言うことを聞くとは思えない。しかも、ツォナムはラクシェの同類と見なされている。 「ツォナムくん、ラクシェ!」 「ラトさん!」 赤毛の女医の姿に、ラクシェは安堵の声を漏らす。 「さあ、あなたたちもお逃げなさい。ラクシェも知ってるでしょ、北西にある洞窟。あそこに皆避難するように言ってるから」 「あ、うん……わかった」 ラトに促され、二人はようやく避難を始めた。 集落の端近くまで来たところで、女性の叫ぶ声が聞こえた。 「?」 「誰か! 誰か、助けて! うちの子が、メトゥがまだこの中に!」 燃えさかる家の前で、嘆いている女性がいた。 「そんな……」 ツォナムが絶句するのも無理はない。 火の勢いは激しく、奥の部屋はまだ燃えていないようだが、この中に入るなど、命がいくつあっても足りはしないだろう。 それを、この女は助けてと叫んでいる。気持ちはわかるが、自分は何もしようとしない、その態度が癪でもあった。 それは、この村全体に共通するものでもある。 皆、それぞれが、自分の命惜しさに逃げまどうだけで、統制のとれた動きがない。冷静さを保った行動もない。 せめて、大人が子供を誘導して逃がすなり、消火をするなり、何かすべきことがあるはずだ。ナクポ族を迎撃せよ、とまで要求するつもりはないが。 「…………あ、あたしが」 だが、燃える炎の奥から、泣く子供の声が聞こえてしまった。 ラクシェが、衣服の袖をまくり上げながら、一歩、ゴウゴウと燃える家に近づいた。黒い翼であれば、炎に耐えることができる。全身を守ることはできないが、他の誰かが助けに行くよりは、安全なはず。 だが、その肩にほっそりとした手が置かれた。 「あなたは、ここで待っていて。私が行くから」 ラクシェを止めたのはラトである。 彼女は余裕の笑みを浮かべると、臆せず、炎の中に入っていった。 「ラトさんっ?」 案ずるラクシェの声を吸い込み、炎はあざ笑うかのように、燃えていた。 「………………」 怖ろしいほど長い時間が過ぎたように思ったが、本当は二、三分のことだったろう。炎の中から、幼い子供を抱いたラトが現れた。 「ああ! ラトさん、よかった!」 ラトはその白い肌にも、長い髪にも、衣服にも、燃えた後はまったくない。 「ああ……メトゥ、メトゥ……!」 母親は、我が子を受け取るとろくに礼の言葉も言わず、その場を走り去る。 「さあ、私たちも行きましょう」 それに気を悪くするでもなく、ラトは微笑んでいた。
洞窟の中は静かで、外がどうなっているのかまったく判らない。 思い沈黙を、時折火傷の痛みに呻く声や、家族や家をなくした悲しみに嗚咽する声が破る。どうして、自分たちだけが不幸なのかと、密やかに嘆く声が渦巻いている。 「ラトさん、水、汲んできたよ」 いざとなれば自分はナクポのふりができるからと、自ら水汲みを買ってでたラクシェが戻ってきた。水はいくらあっても足りないくらいに必要だ。ツォナムも、歩きながらだからラクシェよりはペースが遅いが、水を汲みに行っている。 「ありがと……まだ必要だから、悪いけど……」 「騙されないぜ!」 さらなる水汲みを頼もうとしたラトを遮り、先ほど治療されたばかりの男が、ラクシェを睨みつける。 「おまえだろう! おまえが、あいつらを呼んだんだ!」 「え? え?」 思わぬ罵声に、ラクシェはただただ、おろおろと助けを求めるように周囲に視線を走らせた。だが、助けを得たのは男の方だ。 「俺たちは、ちゃあんと見張りをしていた! 見張りにばれないように、おまえが奴らを村に入れたんだろう!」 「そうだそうだ! この忌まわしい混じり者が!」 口に出しているのは数人だが、その他の人々の目が、彼らへの同意を語っていた。 「そんな……あたし、そんなこと、しな……」 「黙れ! おまえ以外に誰がいる! ナクポの奴らとつるむような奴がよ!」 「得体の知れない男を連れ込んでるのが、いい証拠だ!」 得体の知れない男、とはもちろんツォナムのことだろう。 「だって……ツォナムは、怪我して……」 「ナクポの手先が何を偉そうに!」 「おまえなんぞ出て行け!」 ラクシェの言い分など、端から聞く耳を持っていない。 「情けない奴らだな」 片手に杖を、反対の手に桶を持ったツォナムが戻ってきた。 洞窟の外まで、彼らの罵声は聞こえていたらしい。 「奴らに怯え、何もできないくせに、か弱い女の子には総出で八つ当たりか」 「なんだと……!」 ツォナムの侮蔑が伝わったらしい。激怒と、そして力量の判らぬ相手への恐怖で、男達は言葉を詰まらせた。 「ニィラムはたしかに弱い。だが、おまえたちはその弱さを振りかざすばかりじゃないか。そして、強いものに虐げられたはけ口を、抵抗もしない女の子一人に向けている。恥ずかしいとは思わないのか? 思わないなら、おまえたちは最低な人間だな」 「……!」 「怪我の軽い者は、手当の手伝いくらいしたらどうなんだ? それだけ捲したてる元気があるなら、そのくらいできるだろう。自分たちは何もしないくせに、どっちが偉そうだ。 それとも、こんな得体の知れない男の汲んだ水など、いらないか? ならば、これは捨ててやるが?」 ツォナムは桶を傾ける。 もう少しで、せっかくの水がこぼれてしまいそうだ。水場までは少々遠い。もう一度汲むとなると、時間も労力も必要になる。 「………………」 男達は沈黙する。 強い態度に出られ、何も言い返せないのだ。 「……待って。 その水は、私が必要なの。だから、私にちょうだい」 横からさっと手を伸ばし、ラトがあっさりと水を奪った。 「もっとも、捨てるつもりなんてさらさらないんでしょうけど。 でも、ツォナムの言う通りよ。彼の言い方は少々棘があったけれど、間違ったことを言っているわけではないわ」 「………………」 相変わらず彼らは黙ったままだったが……その目は、雄弁に不満を語っていた。
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