「他にも……いるんですか? あなたたちみたいな人が。 …………すごい」 聖良達の話を聞き、梓は小さく簡単の吐息を漏らした。 「すごい? すべては、おまえ達無責任な自称小説家のしたことじゃないか」 感動の面持ちの梓に、克樹は冷たく言い放つ。 「だって……私、母にずっと……小説なんて無駄なことはやめろって、言われてきました。でも……命を生み出せるくらい、すごいことなんでしょう? それは、無駄なことなんかじゃない。 あなたたちには魂があって、心があって、生まれてきたことを悩んでるように見える。それって、私たち人間だって、一度は通る悩みだもの。 お母さんが、赤ちゃんを産んで、育てる……それと同じだけのことを、してるってこと。親が子供に幸せになってほしいと思うように、私は、自分のキャラには幸せになってほしいって思ってる。 物書きは、お腹を痛めるんじゃなしに、頭を痛めて一つの命を創るの。そう考えたら、すごいことだと思わない?」 聖良がいるためか、最初は敬語を使っていた梓だが、語るうちに敬語を忘れていた。それだけ、これは彼女の本音ということだ。 「幸せに……」 それを聞いて風歌は呟く。彼女の母が、風歌に幸せになってほしいなどと、考えていただろうか。 だが、それに気づかず、梓は少し照れたような笑みを浮かべた。 「なんて……ほんとはね、私、自分が幸せなんて、あんまり思ったことなくて……不幸だとも思わないけど、幸せだなって、実感したことあんまりなくて。 小説読んでたらね、なんか、幸せそうに見えるの。楽しそうに見えるの。キャラたちはたしかにひどい目に遭ったりするんだけど、それでもね、私より、彼らの方が幸せそうに見えるの。 だから……ここにはない『幸福』を、求めて……書いてた。それで私が幸せになれるってわけじゃないけど、少しは浸れる気がして」 梓が、ファンタジー世界への憧憬を人に語るのは、実は初めてのことだった。こんなこと、普段は恥ずかしくて言えない。 その横で、風歌は少し俯いた。 「あたし……あたしもね、故郷にいたとき……あたしの集落って、どこを見ても山ばっかりで。人からはどこまでも平らな大地とか、集落がまるごと収まるくらいの大きな川とか、果てが見えない青い海だとか聞いてて、そういうところに行けば、あたしでも……幸せになれるのかなって、思ってた。 故郷を追いだされるように出て、現実の世界にくるまで、克樹としばらく世界を旅したけど……どこにいっても、争いがあったり、病気があったり、貧しい人がいたり、死ぬ人がいたり……無条件に幸せな場所なんて、どこにもなかったよ」 どこか暗い表情で風歌は言う。いつもの明るい笑顔からは想像できないが、これが彼女の素顔なのだろう。 「『やまのあなたのまだとおく、さいわいすむとひとのいう』……か」 「え?」 梓が突然口にした言葉の意味が判らず、風歌も、そして克樹も聖良もきょとんとしている。 「前にね、国語の時間に習ったの。 やまのあなたのそらとおく さいわいすむとひとのいう ああ、われひとととめゆきて なみださしぐみ、かえりきぬ やまのあなたのなおとおく さいわいすむとひとのいう」 「………………」 「ドイツのカールブッセっていう詩人の詩でね。日本には、上田敏っていう人が訳して紹介した……んだったと思う。ここでの『あなた』は彼方って意味で、『山の彼方に幸せがあると噂に聞き、人と一緒に訊ねてみたけれど、結局見つからない。それでも、人はもっともっと遠くに幸せがあると言う……』 平たく言うと、こんな感じ」 「ここではないどこかに、幸福がある……ね」 聖良はどこか自嘲的な笑みを浮かべている。 「そういえば……。メーテルリンクの『青い鳥』では、幸せの青い鳥は自宅で飼っていた鳩でした。あんがい……幸せって、近くにあって気づかないもの、なのかもしれませんね」 聖良の呟きに答えるためか、梓は急に言葉を敬語に戻し、そう付け加えた。 「そうかもしれないわね。 ……それより、あなたたちは、今日は寮には戻らない方がよくてね。もうすぐ日が落ちるし……そうなると、ああいうタイプは力を増すから、こちらから仕掛けるのは、明日の早朝にしましょうか。克樹は、それでよろしい?」 「ああ……。 おまえ達二人は、今日はここに泊まれ。僕は出て行くから安心しろ」 克樹はもたれていた窓から離れると、止める間もなく戸口に行き、宣言通り部屋を出て行ってしまった。 「まあ、ここにいれば危険なことはないと思うわ。それじゃあ、おやすみなさい」 聖良はにこりと微笑んで、やはり部屋を出た。 残された風歌と梓は顔を見合わせた。
「それにしても、驚くことばっかりだったわ」 克樹の布団に二人で潜り込んで、暗い天井を見上げて、梓は改めてそう思った。 「うん……ごめんね? なんか、巻き込んじゃったみたい」 「風歌のせいじゃないよ。風歌がいなかったら、私死んじゃってたし。 それより、チベットから来たっていうの、素性を誤魔化すための嘘だったんだね?」 「え? うん……あたしたちの世界の地理を聞いた人が、チベットかネパールあたりっぽいなって言って。それにね、あたしの名前……ラクパ・シェエっていうんだけど、チベット風なんだって。チベットの言葉を調べると、ラクパは風、シェエは風って単語に音が似てるらしいの。まるっきり一緒じゃないみたいなんだけど。実際、あたしの名前、『風の歌』って意味なんだよね」 名付けられたのは、風歌が異民族の血を引いていると判る前。そのころは、彼女は母から幸せになってほしいと願われていたのかもしれない。 「克樹くんも? 同じ所の出身なの?」 「世界は同じだけど……克樹は、大陸の東の平原から来たよ。皆が、中国っぽいって言ってた。それがどうしてか、うちの集落の近くに転がってたんだけど」 「へえ……なんか、大変そうだね。 でも……話してるのは、日本語だよね?」 チベットと中国。中国語なら、まだ判るのだが。それとも、この世界に来てから日本語を覚えたのだろうかと、梓は考えた。 「ん〜、物語がもし書かれていれば、日本語で書かれていたはずだから、らしいよ。だから、どんな世界、どんな国から来た人でも、日本人が考えた物語の登場人物だったら、日本語を話すんだって」 「言われてみれば……そっか」 小説のキャラクター達は、そこがどんな世界だろうと、名前が日本風、西洋風、中国風を問わず、そしてどんな文字が使われているかを問わず、日本語で会話をする。 ついでに付け加えると、聖良のような髪や瞳の色が外国人風のキャラクターでも、どことなく日本的なのは、それを想像しているのが日本人だからだ。やはり、一番見慣れた日本人の顔が思い浮かびやすいのだろう。もちろん、中にはどこからどうみても日本臭さのない顔立ちの者もいるのだが。 「それで、さあ。翼で空飛ぶのって、やっぱり気持ちいい?」 ちょっとわくわくした顔で、梓は話題を変えた。やはりこれは、聞いてみたい質問だろう。 「うん。風を切るのって、気持ちいいよ。でも……ここの空は、故郷の空より、空気がねっとりしてる感じ。ちょっと気持ち悪いかな? でも、走るのよりは、楽しいよ」 「ごめんね。翼怪我したでしょ? しばらく、飛べないね」 「平気……どうせ、人目につくからって、あんまり飛ばないようにしてるし。出してなければ、痛くないし」 聖良は、いくつか魔法を使えるが、残念ながら治癒の魔法は使えない。それに、風歌はその気になれば桃色の翼を怪我した今でも飛ぶことができる。本人に、その意志はないけれど。 「この事件が片づけば、治してもらえるし、ね」 そう言って、風歌は小さな欠伸をつけくわえた。 「ああ、もう、眠いよね。今日は色々で疲れたし。 ……おやすみ、風歌」 「おやすみなさい……」 しばらくすると、暗い室内に穏やかな寝息が二つ、静かに流れた。
|
|