「梓ちゃん!」 扉を開けたとき、目に飛び込んだ光景を、風歌は忘れることができないだろう。 数人の生徒に抱えられた梓が、放り投げられた瞬間。 この高さから落ちれば、人は死ぬ。 死ぬ。死ぬ。いなくなってしまう。 問答無用に。情け容赦なく。 死の顎は梓を捕らえて、彼女の生きたいという思いなど、容易くかみ砕いてしまうだろう。 風歌は駆けた。 苦手なはずの、足を使って屋上を蹴った。 そして、屋上の縁で彼女の制服のブラウスの背中が破れ…… 桃色の翼が広がった。 「梓ちゃん!」 地面までは近い。 落ちるまでに、梓に追いつかなくてはならない。 だから、風歌は最初に強く羽ばたいき勢いをつけた後、翼を閉ざし、重力に引かれるに任せて落ちた。いや、空気抵抗の少ない姿勢をとり、梓よりも早く落ちた。 そして、手を伸ばし…… 「ぐっ!」 梓の身体を抱えた瞬間、広げた翼が重みに耐えきれず、ぐきりと嫌な音をたてた。 ニィラム族は翼の力だけで飛んでいるわけではない。神から授けられた魔法的な力が働いているから、飛べるのだ。だが、魔力の元である翼を痛めて飛べはしないし、支えられる重さにも限りがある。だから、彼らは他種族より小さいし、骨を空飛ぶ鳥の骨の構造に似せて、身体を軽くしているのだ。 だから、そもそも風歌が梓を抱えて飛ぶのには無理がある。しかも、落下の勢いがついていたから、なおさら翼への負担は重いはず。 それでも風歌は翼を使って減速し、地面に不時着した。 「たす……かった?」 恐る恐る地面に触れ、梓は風歌の顔を見た。 風歌は柔らかな笑みを浮かべ、小さく頷いた。 「……うん」 「風歌……ありがと……。怖かった……すっごい、怖かったよ……」 震えながらしがみついてくる梓を、風歌は翼で優しく包んだ。 翼で相手の身体を包むのは、ニィラム族の親愛の情の表現である。親子、夫婦、恋人、友人。どんな関係でも、相手を信頼し、大切に思っている証として、ニィラム族にとってもっとも大切な翼を相手に預けるのだ。 「いたたたたた」 風歌はその翼をそっと広げようとして、痛めた筋が痛かったらしい。 「大丈夫?」 「え、あ、うん……えへへ。 変だよね。こんな……羽根が生えてるなんて、変だよね……?」 いつもの、どこかわざとらしい大きな笑みを浮かべ、風歌は梓を見た。 ああそうか、と梓は思う。 風歌のこの笑みや、時折じっとこちらを見つめる視線は、こちらとの距離を測っているのだ。どこまで甘えていいか、どこまで頼っていいか。そして、どこまで本当の自分を見せられるか。 そんな彼女に、上辺だけの言葉を言っても、見破られるだろう。 本当に、思った心のままを言わなければ、風歌の親友になど、なれはしない。 「ううん……そんなことないよ。そりゃ、ちょっと驚いたけど……でも、すごく素敵。可愛いし、その羽根……ちょっと暖かいんだね。気持ちよかったよ」 梓の言葉に、風歌はまだ少し不安をたたえた瞳で梓を見ていた。 「それに、翼があったって、風歌は風歌でしょ? 私と友達になってくれた、風歌でしょ? あなたが何者でも、風歌が望んで私と友達でいたいって思ってくれてる限り、私も風歌と友達でいたいから」 梓は右手を差しだした。 その手に、風歌は恐る恐る自分の手を伸ばす。 「だから、ずっと……友達。ね?」 ぎゅっと風歌の手を握り、梓はにこりと微笑んだ。 そこへ、一台の車が走り込む。 もちろん車両は立ち入り禁止の区域だが、そんなことはおかまいなしだ。 「ほら、何をなごんでいるの。乗りなさい、逃げるわよ」 少々乱暴に車のドアを開いたのは、図書室司書の聖良だった。
「物語……? あなたたちは、物語の世界から来たの?」 話を聞いて、梓は驚きの声をあげた。 驚くのは無理もない、と思いつつ、聖良は頷いた。 「来たというより、実体化した、というのが正しいかしらね。元々は書かれることなく、本に……というより、これは私の推測だけれど、<文字>という形に封じられなかった物語が、人の空想に治まりきらず、形を得て、現実に溢れてきたものだと思うの。無論、そうとう稀なことだけれど」 とりあえず、聖良の職員寮も危ないということで、克樹のワンルームマンションに退避した彼女たちは、梓に自分たちの事情を説明することにしたのだ。 すべてを誤魔化すには、梓はあまりに深くこの件に関わりすぎている。 「別に、小説でなくとも構わないだろうとは思うけれどな。漫画、演劇、映画、ゲーム……表現の形態がどうであれ、世界があり、人がいて、物語が紡がれる……その過程さえ踏んでいれば。 僕たちの創り主が、どういう媒体を使うつもりだったかなんて、確かめようがないんだ。たまたま、小説が古くからあり、本という封じ込めるためにかっこうの道具があった。それだけのことだろうが」 この部屋の主、克樹は窓に寄りかかるように立っている。 窓の向こうには学校が見える。もし、学校からなにかが来れば、真っ先に感知でき、事態に対処できる位置だ。 「そういえば……ずっと前になにかで読んだ気がします……。小説は、もっとも挑戦しやすい芸術だって」 文字さえ書ければ、誰にでも書くことが可能な分野だ、とどこかの小説家が書いていたような気がする。否、文字が書けなくても、口述筆記という手段もあるから、誰にでもできる、と。もちろん、面白いものが書けるかどうかは、別問題だが。 楽器や楽譜の知識もいらない。画材の知識もいらない。材料や、大掛かりな道具もいらない。スタッフもいらない。紙とペンがあれば、一人でできる。 題材など、自分の人生を綴るのでもかまわない、そう作家は述べていた。 それが万民に受け入れられる考えかどうかはともかく、彼の意見に一理ある、とそれを読んだ数年前の梓はそう思った。 今は、作品の質を問わないのであれば、絵画なら落書きでも、音楽ならば鼻歌でもいいのだから、そちらのほうが簡単だと思うけれど。 「つまりね、あたしたちは……それに、あの由利亜も。元々、この世界にいなかった人間ってこと。だから……あんなことができるんだよ」 辛い気持ちで風歌は言った。書き記されなかった物語から来た存在が、由利亜のようなものばかりと思われたら、悲しい。 「僕たちは、この世界に迷惑をかける、そういう存在を排除している。でないと……大事になるからな。中には、日本を……下手をすれば世界を滅ぼせる奴だっている。ファンタジーというのはまったく、厄介だ」 自分もそのファンタジー小説から生まれたにもかかわらず、克樹はことさら面倒くさそうに呟いた。
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