「梓ちゃん!」 ガラガラッと教室の扉を開ける。 教室中が風歌を振り返ったが、そこに彼女の求める顔はない。 「ねえ、梓ちゃんは?」 「さっき、生徒会の人に呼ばれて行っちゃったわよ。どこに行ったかは……知らないけど」 「そんな……」 この学校に棲む魔物は、教師を操ることができる。生徒会の学生くらい、わけなく扱えるだろう。 風歌は、再び駆けだした。
彼女の前には、いつも深い闇があった。 あれは何年前のことだったろうかと、彼女は思い返す。 一条の光すら通さない、漆黒の闇。 そんな中に、彼女はずっといた。 脆弱なる人とは異なる彼女は老いることはなかったが、それがかえって永遠の苦しみに彼女を縛りつけた。 いつか、彼女の愛する人が助けに来てくれる。 夜明けを告げる彼が来れば、この冷たい深淵にも、暖かな日の光が届くはず。 そのことだけを頼りに。 何十年も、何百年も、彼女は待ち続けた。 だが、光は思わぬ所から射した。 彼女の目の前に、狭い廊下が現れたのだ。 「セラータ?」 そして突然かけられた声に振り向けば、見知らぬ人間の小娘が、驚いた顔で彼女を見ていた。 どうして、自分の名を知っている。 堕天使たる彼女にとって、名を知られるということは支配されること。冗談ではない、こんな小娘に。 「あ……ごめん、そんなはず、ないよね。でも、あんまりイメージどおりだったから。ねえ、あなた、何年生? 私は高等部の一年なんだけど……」 小娘はセラータに理解できない単語をいくつか並べ、一人で勝手に喋っている。 ますます、忌々しい。 次の瞬間、セラータは少女を殺していた。 そして、身を落ちつける場所に、少女の亡骸に案内させた。 通されたのは少女のものと思しき小さな部屋で、セラータはさらに信じがたいものを発見することになる。 自分の特徴を記されたノート。誰も知らないはずの、彼女のことが事細かに書かれている。そして、自分が今まで歩んで来た事柄が、そしてまだ彼女の知らない未来の事柄までもが。 一人の堕天使の女の、<明けの明星>ルシファへの切ない恋の物語として。 彼女が、天界にいた頃から秘めていた恋心。天使としての格の違いから、永遠に封じる覚悟でいた、その想いのために、神に反旗を翻した彼に付き従ったこと。 誰にも、知られてはならないその想い。
校舎の屋上に悠然と立ち、更科由利亜はゆっくりと目を開いた。 校内に溜まった血と、死とが織りなす負の気配を感じ、恍惚とした表情を浮かべる。 だが、それもすぐに陰ってしまった。 「まだ……足りないのかしら」 そして、彼女は背後を振り返った。 「貴女を捧げれば、我が主は目覚めてくれると思われますかしら?」 「………………」 梓は黙って由利亜を見ていた。 彼女の両腕は、生徒会のメンバーにしっかりと抑えられている。 その力は信じられないほど強く、とてもではないがふりほどけない。 「あなたが……」 絞りだすように、それでも梓は由利亜に問いかけた。 「あなたが……美幸ちゃんを……?」 「彼女は、わたくしの役に立ちたがっていらっしゃいましたもの。ですから、その血肉を捧げていただきましたのよ。 そして……貴女のような人間は、わたくし、一番許せませんの」 「え……?」 地味に質素に生きている、自分のどこが許されないのだろうと、梓は疑問に思う。 「創造主……? 冗談ではございませんわ。たかが人間ごときが、神を気取ってでもいるつもりですの? そう、神も大嫌いですわ。あの方を堕として。しかもそれが、人間に試練を与えるための、神の計画通りだったなどと! 端から離反させるつもりで、闇に落とすつもりで、我々を生みだしたなどと! それと同じことをしている、『小説書き』などという、神を気取った輩……わたくしを創造しておいて、あの方のいらっしゃらないこんな世界に放りだしたあの女!」 激高する由利亜を、梓は唖然として見ていた。 彼女の言っていることはわけが解らない。 その由利亜の、日頃見せたことのない憤激は治まり、今度は妖しく笑いだす。 「うふふ……。 でも、そんな貴女でも、あの方を甦らせる役に立たせてあげますわ」 この世界にいないはずの、『あの方』。 彼女自身混乱しているのか、あるいは、何か手があるのか。 「さあ、死んではらわたをぶちまけなさいな!」 由利亜が高らかに哄笑する。 「きゃ……!」 梓の腕はさらに強く掴まれ、屋上の端へと引きずられる。 「や……やだ、やだっ!」 「いつもなら、殺してから落とすのだけれど……昨夜は散々邪魔をしてくれましたものね。地面に落ちる恐怖を味わいなさいな。 ふふ……無駄よ。この学校の生徒達は、貴女の悲鳴を聞いても、それを意識しないようになっている。今までの貴女がそうだったように。助ける声を無視してきた、貴女のように!」 由利亜の顔は美しく、そして凄惨に歪んでいる。 もっともそれを見る余裕など梓にあるはずもなく、彼女の身体は屋上の柵を乗り越えさせられていた。 非力な少女とはいえ、死を目の前に暴れているのだ。普通の女子高生に抑えられるものではなかろうが、生徒会の学生達は平然と梓を押さえている。 「やああああああ!!!!」 「梓ちゃん!」 梓の身体が宙に投げだされた瞬間、屋上の扉が開き、風歌が飛びだしてくる。 (助けに来てくれたんだ) 身体の支えがなくなった途端にスローモーションで流れるようになった光景を眺めながら、梓はこっちに駆けてくる風歌を見ていた。 死の寸前には、今までのことが走馬燈のように流れるというけれど、そんなのは嘘だ。 誰も来ないと言われたけれど、風歌だけは来てくれた。 彼女のことを案じてくれた。 そして同時に、風歌のことが心配になった。 自分と同じ目に、遭ってほしくない。 不思議と、穏やかな気持ちになれた。
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