「……風歌?」 「え?」 案ずるように名を呼ばれて、風歌は我に返った。 きっと昔の……『見知らぬ相手に与えられた』記憶に囚われていたのはほんの数秒だったろう。けれど、それでも闇に怯える梓には充分に長い時間に感じたはずだ。 「ああ、ごめんね。なんでもないよ。 今からどうしようかって、思って」 「…………」 それは梓にも答えられない。多少は何が起こっているのか理解できる風歌と違い、彼女には情報が少なすぎる。 空想小説を好み、自ら書き記す想像力の持ち主で、不可思議な出来事に対する許容力をもつ彼女だからこそ、ぎりぎりのところで精神を保っているのだ。普通ならば、いくら学校全体を覆う魔法の影響があっても、とうに心が壊れている。 「もう一度……出口に行ってみる? ひょっとしたら、出られるかもしれないし」 だが、壊れていないだけで、かなり不安定な状態であることに代わりはない。それは風歌も同じだが、梓はここに隠れていることに耐えられなかったのだ。 「……そう、だね。なにか……手がある、かも」 聞き耳を立てつつ、風歌はゆっくりと立ち上がった。梓もそれに続く。 そっと扉を開けようとするが、がらがらと想像以上に大きな音が響き、二人は首をすくめた。 そっと廊下の気配を伺うが……なにかが来る様子はない。 二人は廊下を歩き始め、自分たちの足音にさえもびくびくしながら、階段を目指す。 しばらく歩くと、何事もなく階段に辿りつき、二人はほっと息をついた。ここまで来るだけで、一時間も歩いたような錯覚すら覚える。 風歌と梓は並んで階段に足をかけ…… 「え?」 なにかが2人の周囲を駆け抜け、思わず閉じた目を再び開いたとき…… 下るための階段が、どこまでもどこまでも続いていた。 「?」 振り返れば、やはり昇る階段も、消失点まで続いている。壁は、普通の学校の壁だ。 「……なにが」 「逃がさないって……そういうこと?」 二人の少女は、助けを求めるように、お互い身を寄せた。 カツーン、カツーン。 そして響き渡る靴の音。 「どっち……?」 震えながらも耳を澄ませた少女達の耳に、さらに靴音が増えて聞こえてくる。 上からも、下からも。 上ってくる、下ってくる、無数の人影。遥か彼方からやってくるその人間達は、ゆっくりと、ゆっくりと、ことさらに時間をかけて近づいてくる。 そして、それぞれの人物の顔が判別できるほどに近づいたとき、その手にさらに嫌な者を見た。 「いや……」 教鞭、竹刀、包丁、はさみ、バット……どれも学校にあるものだ。教師達は思い思いに何かを手にし、張りついたような薄っぺらな笑いを浮かべ、風歌と梓に近づいてくる。 「そんな……どうし……」 ぎゅっと相手の身体にしがみつく。相手を支えるように、縋るように、強く、強く。 伸ばされたスーツの手が、梓の肩に、風歌の頭に、ゆっくりと伸び…… 動きが、止まる。 「大丈夫かっ!」 階段の下に群がる大人の群れが乱れる。殴り飛ばし、蹴り弾きながら、一人の少年が踊り場の下から駆けあがってくる。 そう、階段は、いつのまにか元に戻っていた。 「ツォナム!」 思わず、自分自身でつけた彼の名を叫び、風歌の身体がくたくたっとくずおれる。隣の梓も腰を抜かしたように座り込んだ。 「座ってる場合じゃない!」 そんな二人を叱咤しつつ、克樹は二人の少女の手を取り、立たせた。 「聖良さんが破魔の呪法を使ってくれてる。そう長くは保たないらしいから、すぐにここを出るんだ」 早口にそれだけ言うと、半ば強引に、引きずるように克樹は階段を下り始めた。 「あ、待って!」 足の長さが違うから、本当に引きずられながらも、風歌と梓はその後を追った。
校舎を出たとたん、気絶してしまった梓を抱え、なんとか寮まで戻り、こっそりと風歌の部屋に運び込んだ。もちろん、克樹は寮の外で待っているが。 「………………」 梓の寝顔は安らかとはいいがたい。 それは意識を保ったままの風歌の表情も同じなのだが、苦悶の表情のまま固まったような、梓の方が痛々しい。 「ねえ……聖良さん」 「ん?」 声をかけられ、聖良は極力優しく聞き返した。 「今日くらいは……いいよね?」 ゆっくりと制服のブラウスを脱いだ風歌の背に、淡いピンクの翼が広がる。 「そうね……」 魂の安らぎは、梓だけでなく風歌にも必要だろう。 そのためにこそ、<夢見る翼>はあるはずだ。 「いい夢を……せめて、今夜だけでも、見せてあげて」 明日になれば、また怖ろしい、現実を超えた現実が待っているのだから。 聖良が髪を撫でてやると、安堵したように風歌は瞳を閉じ、眠りについた。
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