「ど……どうなってるの」 とりあえずハンカチで顔を拭い、力無く梓は呟いた。 質問ですらない。答えなどなくていい。口に出さずにはいられない、そんな様子だ。 「わかんない……でも」 言いかけて、風歌は口を閉ざす。 言っていいものか、どうか。 さすがに梓も、友人が目の前であんなことになったという現実は、『なんでもないこと』ですまされないらしい。 「……でも?」 答えを期待していなくても、何かを示されたら気になったらしい。少なくとも、黙っているよりは気が紛れるというものだ。 「…………美幸ちゃん……生徒会室から出てきたときには、もう……」 風歌はその言葉を口にしなかったが、梓にも彼女が何を言いたいのかが判った。 美幸はあの時点でもう、死んでいた。 だから態度が妙だった。 いや、それはおかしいではないか。死者は自ら動くことなど、ありえない。 「なんで……?」 「どうして動いてたか、それは……判らないよ。でも、あそこから逃げるとき、あたし……二人の手、握った。梓ちゃんの手は温かかったけど、美幸ちゃんの手……冷たくて、ぐにゃりとしてた」 変だとは思っていた。けれど、彼女が死者であるなどと、あの時点では思えなかった。思いたくもなかった。 そして、風歌は、梓には言えないけれど死者が動く可能性を知っている。 彼女が炎を熾したように、この世の法則を超えた力が存在することを。 「なんとかして……ここから逃げなきゃいけないけど」 けれどやはり克樹達に連絡がつかない。相変わらず外は真っ暗で、出られそうにはない。状況はかなり絶望的だ。 本当に自分たちが『生きて』いるのかどうかすら疑いたくなる。美幸のあの姿を見せられて、それでもなお自分の生を信じられるほど、彼女たちは強くなかった。 「……!」 風歌の体が強ばる。 「どうし……むぐっ」 問いかけた梓の口を、風歌は手で塞いだ。 彼女たちが隠れる教室の、すぐ側の廊下を、カツーン、カツーンと足音を響かせ何者かが通り過ぎる。 それが消えるのを確認し、さらに数分を待って、ようやく風歌は梓から手を離した。 「まさか……おかしくなった先生達?」 「たぶん……」 暗くて、お互いの顔色など判らないが、きっとまっさらな紙のように白いだろう。 「とにかく……ここから出る方法、考えなきゃ」 けれど自分が考えて判ることだろうか、と風歌は思う。自分が克樹の部屋に行かないことで、彼らは風歌を捜すだろう。魔法具でも連絡がつかないとなれば、それこそ必死で。自分たちの手に負えないとなれば、他に助けを求めもするだろう。 いろいろと制限はあるものの、ほぼ万能に近い芽衣もいる。彼女なら、間違いなく風歌達をここから助け出せるはずだ。 だから、下手に動き回るより、ここで助けを待った方が安全かもしれない。 だが、もしここで見つかった場合……逃げ場がない。 風歌の翼はあらゆる危険と嫌なことから逃げるため、彼女の神が授けてくれたものだ。けれど、狭い教室では、その翼は何の役にも立たない。そして、桃色の翼のもう一つの能力も、この場を乗り切るには使えない。 彼女の、彼女が故郷で忌避されていた、その原因となった力なら、あるいは……。 (でもあれは……使いたくない) 先ほど、屍の美幸に対しては、そうするしかなかったから、<黒い羽根>を使ったけれど。でも、それは最後の手段だ。それほど、風歌はそれを厭うている。
****ヘイヴァニア***********************
『殺しておけばよかった』 声が響き、ラクシェは目覚めた。 今のが、本当に誰かが発した声のはずはない。 あの声で、あの言葉を吐いた人は、もう三年前に亡くなった。 『生まれたときに、殺しておけば、よかったんだ』 何度、あの人に言われたことだろう。 ラクシェが黒い羽根を持っていると判った日から、毎日、毎日。 言われることには慣れる。なじられても、けなされても、いちいち顔色を変えることもしなくなった。 けれど、心が傷つかなくなることはなかった。 ラクシェはずっと、母親が死ぬまで、否、母が死んでも、村の人々の避難の視線は変わらず、ずっと、その存在を拒否され続けていた。 無理もない。 腕を覆う黒い翼はニィラム族の天敵である、ナクポ族のもの。その混じりものなど、おぞましい以外の何者でもない。 「………………」 ラクシェは頭を抱えた。 自分だって、好んでこのように生まれたわけではない。 無論、彼女の母も好んで産んだわけではない。ナクポの男に目の前で夫を殺され、彼女自身は乱暴された。その直後、身ごもったと判り……死んだ夫の子であるという一縷の望みを抱いて産んだものの、その希望はあえなく潰えた。 それは判っている。誰が悪いと論じても仕方がないのも理解している。 ニィラム族の神が与えてくれた翼は、空を飛び、外敵から逃れるだけでなく、現実の辛さから目を背ける、幸せな夢も見せてくれる。夢に浸かりすぎて、現実に戻れなくなるものもいるほど、翼の見せる夢は甘美だ。 だが、その翼の夢も、ラクシェから、亡くなった母の声を取り除いてはくれなかった。この声だけは、いつもいつも彼女をさいなむ。 ラクシェの混ざった血が、翼の力を弱めているのかもしれないが。
「……あれ」 目覚めてから再び寝付くこともできず、ラクシェは外に出た。 ニィラム族は鳥目ではないが、夜は基本的に活動しない。この時間に起きているのは、村の男達が交代でしている見張り番くらいなものだ。 だから、ラクシェはこの時間が好きだった。外に出ても、誰にも会わなくてすむ。 だが、今夜は家を出てすぐに人影が目についた。 同族ではありえない長身。ツォナムだ。 「眠れないの?」 彼女の接近に気づいていたのか、振り返りもせずに彼は頷いた。 「……ああ。時々、自分は何をやっているのかと思うと……眠れなくなる」 いつも感じているもどかしさが、夜の闇に乗じて彼の心を蝕むのだ。覚えていないことになっているかつての自分と、今の自分。 少し前までは充実していた。勉学と武道に励み、国を支える柱となるべく、己を高めていた日々。 今は、治りつつある折れた足を動かす練習をしながら、ラクシェの世話になっている。もどかしくてもどかしくて、暴れたくなる。 「星なら……僕を導いてくれるかもしれないと。だが……だめだな」 一族を導く星は、一族から捨てられた自分を助けてはくれないのだろう。占星術の基礎なら、多少は役に立つだろうけれど。 「……あそこ、見張りをしているんだな」 この話を続けたくなくて、ツォナムは唐突に話題を変えた。 「ああ……うん。ナクポの人たちが、いつ来るか……判らないから」 『ナクポ』の名称を口にするとき、風歌の顔が歪むのをツォナムは見逃さなかったが……あえて、気づかないふりをした。 「ナクポ族……か」 帝国の言葉で『火鴉族』。 その名の通り黒い翼を持ち、ただし、背中から翼を出し入れできるニィラムと異なり、ナクポの翼は腕を覆うように羽根が生える。 そして、ニィラムが夢を見る力を与えられたように、ナクポの民にも授けられた力がある。それが、火を操る能力だ。 ナクポは肉体的には脆弱だが、好戦的な性格で、ニィラムのようなさらに非力な民族を襲い、男を殺し、子供を奪い、女を犯す。さらには、集落ごと焼き払う。 ニィラム族が警戒するのも、無理はない。 「あいつらなんか……いなければ……」 いつものラクシェからは想像できない表情で、彼女は忌々しげに呟いている。 「………………」 しばし黙ってその様子を見ていたツォナムは、ぽんと彼女の肩を軽く叩き、体を反転させた。 「明日も早いんだろう。もう、寝ろ」 「ん……」 曖昧に頷いたラクシェを促し、ツォナムは小屋へと戻った。
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