「あそこ!」 風歌が指をさす。 お互いの姿を認識するのがやっとなくらい、暗くなった廊下で、一つだけ灯りの点った教室はよく見える。 あそこが安全とは限らないのだが、それでも、光というのは、闇に怯えた人間に安堵をもたらす。 ガラガラっ バタン! 少々乱暴に扉を開け、閉める。 ただ明るいということが、どんなにか嬉しい。 「はぁ〜〜〜」 乱れきった息を整え、梓は扉に鍵をかけた。 だが、足音が聞こえなくなっていることには気がつかない。 ポタ、ポタ…… 「ひっ……!」 水が滴る音に、背筋に寒気が走る。 だが振り返って教室の中を見れば、なんのことはない。 「ここ……調理室ね」 きちんと蛇口が締まっていないだけだ。 無我夢中で走り続け、自分がどこにいるのかも判らなくなっていたが、現在位置の把握だけはできた。 時間も確認しようとして、教室の時計を見上げ、それは諦めざるをえなかった。 時計の針はデタラメにぐるぐると廻っている。 梓は、それを『仕方ないか』で片づけていた。 「……あれ?」 風歌は、時間など気にならないのか、調理室を見回し、ある一点を見つめていた。
「くそっ!」 克樹は暗然とそびえる校舎の前で悪態をついていた。 どうしても校舎に入れない。 ガラス窓を叩いても、石をぶつけても、ビクともしない。 もちろん、学校の窓ガラスが防弾ガラスなはずはない。ただのガラスだ。叩けばひび割れ、脆く壊れる、そのはずだ。 「おそらくは、何らかの結界が張ってあるとみて、間違いなさそうね。風歌ちゃんと連絡が取れないのもそのせいよ。 時間がかかるけど、結界破りを試してみましょう。 これが、悪魔とか黒魔術とか、そういった系統の力なら、私でも何とかなるはずですから」 聖良は手にした巨大な、通常よりも横棒の短い十字架で、地面になにやら描き始めた。
「なんでお鍋が……?」 梓もそれに気がついた。 調理実習室にある、一番大きな鍋が一つだけ、コンロにかけられている。誰もいないのに火にかけられたそれは、ぐつぐつと煮えていた。 「な、なんか……」 不気味なこと、このうえない。 日常の何気ないことが、こんなに気味が悪いとは思わなかった。 「どうってこと、ないわよ」 平然と美幸が近づく。 剛胆な彼女らしい行動と言えなくもないが、今日の美幸はどこか変だ。 「ちょっと駄目だよ、美幸ちゃん……」 鍋から出てくる無数の蛇。 鍋から出てくる幽霊。 鍋から出てくる濡れた長い髪。 鍋から出てくる蛭の群れ。 鍋から出てくる………… いくつもの嫌な想像が、梓の脳裏を駆けめぐる。 このときばかりは、想像力旺盛な自分を恨めしく思う梓であった。 怯える梓と風化には構わず、美幸は鍋に近づき…… 「だめっ!」 風歌が慌てて回り込み、美幸を止めた。 「どうして? ただのお鍋だよ」 薄ら笑いすら浮かべて、美幸はなおも進もうとする。何故、そこまでこの鍋に執着するのか。 「私も……なんか、やだよ。美幸ちゃん、やめよ?」 後から、梓が美幸の袖を掴み、動きを止める。 「そう……」 美幸が前進を止める。 無理に鍋の中身を確認することを諦めたのか、そう思ったのだが。 美幸は笑顔で口を開いた。 「無駄よ……」 「え?」 思わず聞き返した風歌の耳に、鍋のふたがずれる音が聞こえた。 振り向いた彼女の視線の先で、ふたがひとりでに動いている。 「……!」 隙間からざわりと黒い濡れた糸が何本も何本も、それこそ数え切れないほどにあふれてくる。 いや、違う。あれは糸ではなく…… 「開いちゃダメ!」 風歌はふたを閉めようと鍋に駆け寄った。 その目の前で、ステンレスのふたがはじけ飛ぶ。 「!!!!!!!」 悲鳴すらだせない。 鍋の中で、己の血に染まった湯に浸かり、女の顔が、笑っていた。 しかも、その顔は…… 「きゃああああああ!!!!!!」 背後の悲鳴に振り返ると、梓が襲われていた。 それも、顔だけが見事になくなった、美幸に。 頭部はある。 耳もある。だが、そこに見えるのは頭蓋骨と灰色の脳。そして何本か奥歯も見える。半ばで途切れた舌も。そして血と脳漿が混じりあい、絶え間なく流れだしているのも。 そう、鍋の顔は、今の美幸から欠損した、彼女自身の顔なのだ。 風歌は恐怖に凍りつく。 こんなもの、見て平気な方がどうかしている。 「いやああああ!!!!」 だが、恥も外聞もなく、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして泣き叫んでいる梓の姿が、風歌の体を突き動かした。 何か黒いものを握った手を、美幸の体に押しつけた。その場所が一気に燃え上がる。 「っ!?」 我を忘れていた梓も、突然生じた炎に驚いたのか、はっとなる。 そして改めて、その顔に恐怖を宿し、大きく後ずさった。 「逃げよう!」 風歌に手を引かれ、梓はその場を逃げだした。
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