あれから、どこをどう走ったのか、覚えていない。足の遅い風歌も、遅れずについてきた。人間、必死になるといつも以上の力を発揮できるというが、事実なようだ。 「逃げ切れ……たのか、な?」 ぜいぜいと荒れる息を整えつつ、梓は聞いてみた。聞いても誰にも判らないことは自明なのだが、聞かずにはいられなかった。 「た、たぶん……」 梓ほどではないが、風歌も息が上がっている。 だが美幸は平然としている。たしかに、彼女の運動神経はたいしたものだが。 「………………」 その美幸を、風歌は少し怯えた目で見ている。そして、自分の手を見た。彼女の表情にしめる不安が、より大きくなった。 「これから……どうしようか? 美幸ちゃん、もう資料の整理なんて危なくてできないし……」 あの闇がなんだったのか、あえて考えないことにした。考え始めるとどんどんと怖ろしい想像をしてしまいそうで。 「外も暗いしさ……。今日はもう、帰らない? ……っていうか、暗すぎない?」 廊下はぽつぽつと灯りが点いているから気にならなかったが、窓から外を見ると真っ暗だ。日が暮れるのが早くなったとはいえ、まだこの時間では薄暗いという程度のはず。それに、たとえ夜でも、人家や街灯の灯りが見えるはずだ。 「外が……見えない、ね……」 風歌もその異常に気づいたらしい。 一見、窓に黒い紙でも貼り付けたようにも見えるが……それならば彼女たちの姿がガラスに映るはず。けれど窓は全ての光を吸収してしまったかのように、何も映しださない。 カサカサカサ…… 「え?」 不審な音に、天井を見上げる。 「……ひっ!」 天井を埋め尽くす、無数の虫、虫、虫、虫……。 それが数え切れないほどの足を蠢かし、三人の少女達に近づいてくる。 「に、逃げようっ!」 言い出したのは誰だったか。 声に押されるように駆けだした梓達の頭上に、バラバラと虫が降ってくる。蜘蛛もいる、ゲジゲジもいる、ムカデもいる。得体の知れない虫もいる。 「…………っ!」 気持ちの悪さに悲鳴もでない。 それを必死に振り払いながら、少女達はひたすら逃げた。
いつのまにか虫はいなくなり、風歌達は一階まで逃げていた。 「そこから、出よう」 梓が指さした先には中庭への出口がある。ただ、いつもは開いているそれが、今はぴったりと閉ざされているが。 「あれ……」 「どうしたの?」 「開かないよ、これ……。鍵かかってるのかな?」 まだ部活動がある時間帯だから、まだ管理人も鍵はかけないはずなのだが。今日は部活をしている様子もなかったし、普段より早く鍵を閉めてしまったのだろうか。 「ねえ……、やっぱり、変だよ……」 『闇』や虫に追われていたときは、余裕がなく忘れていたが、風歌は梓達の知らない方法で助けを呼べるのだ。 だが、いくら呼びかけようとしても、克樹も聖良も応答がない。二人ともが同時に町を抜けるということはないはずだ。不測の事態に対応するために。 「ん? そりゃあ……虫があんなにいるってのは……」 梓は、風歌ほど危機感を持っていないようだ。虫に追われていたときは、悲鳴をあげ、必死に駆けていたというのに。美幸に至っては、さっきから何も発言しない。 「普通、ないことだと思うけどね。 職員室、行ってみようか。途中に開いてるところがあるかもしれないし」 肩をすくめ、梓は歩きだす。 他にどうすることも思いつかず、風歌はその後を追った。最後に美幸が続く。 廊下に淀む闇が、ほんの少し、深くなった。
途中、外に出るための扉は全てが固く閉ざされ、そしてやはり、どこからも外は見えなかった。 教室側のガラスに映った自分の姿に、風歌はびくりと震える。 一瞬、そこに映った顔が、ニタリと笑ったように見えた。 「灯り点いてるし、先生誰か残ってるよ。これで帰れるね」 梓の口調からは問題は外に出られないことだけのように聞こえる。もうすでに、外が見えないことに対する疑問も、虫や闇に襲われた記憶も、日常の変わらぬ光景の中に埋没してしまったような。 なにかの魔法の気配を感じる。そう言った聖良の言葉が、風歌の中で繰り返される。 自殺者が出ても、無数の虫に襲われても、『何事もなかった』ことにしてしまえる、そんな未知なる力。 「失礼しまーす」 ガラガラッと戸を開けると、黙々と仕事をしている教師達の姿があった。 ほっと安堵する梓のため息が聞こえる。 やはり彼女も、無意識のうちではこの状況下に不安を抱いているのだ。それを普段感じていないだけで。 「あの……校舎の外に出られなくて。鍵、開けていただけますか?」 梓が声をかけると、教師達は一斉に立ち上がった。 「っ?!」 そして、全員が同時に彼女たちを見る。 寸分のずれもない、まったく同じ動きで。 貼りつけたような笑顔を浮かべて。 『貴女たちは帰ることはできない』 異なる声が、全く同じタイミングとイントネーションで唱和する。 『我が主への捧げものに選ばれたのだから』 丁寧だが、傲然とした口調で言う、声、声、声。 「なにっ……?」 『光栄に思うが良い』 怯え、戸惑う風歌と梓を尻目に、声は言う。高らかに、唄うように、そして無慈悲に。 「に、逃げよう!」 過ぎた危険は忘れる梓も、目の前に差し迫った危機には、きちんと反応する。 三人は廊下を走る。 走って、走って。 それでも、足音は離れない。 多くの人間の、歩く足音。ゆっくりとしたその音が、駆ける少女達から離れない。 そして、廊下はさらに暗さを増した。
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