「知性あるとはいえ、魔法も使えぬ幻風情が、何用か」 氷点下の声が暗い廊下に響く。 「まぁ、そう邪険にするなって。 オレは、あんたが長い長い眠りについてた間、その身体を守ってきたんだぜ? ちょっとは、感謝してくれてもいいだろうがよ」 「………………」 氷のように冷たい視線だが、幻覚であるメイは怯んだ様子は見せない。 「そりゃま、いつしか魔法具であんたを封じ込めてたのは確かだけどな……。あんただって、できれば二度と目覚めたくなかったんじゃないのか?」 メイもメイファンディールとしての記憶を呼び起こすことができた。 ラーハイトに愛されたわずかな幸福と、彼の期待に応えるために、多くの人々を殺した深い罪悪感と。 「ときが来れば……ラーのために…………」 「どんな苦痛も厭わねぇってか? だがな、さっきも言ったように……あいつはここにいない。この世界の何処にもいねぇんだ。ここは、平たく言や異界。後でオレの記憶を探ってもらえりゃ判ると思うが……。 あいつがこの世界に来ることは、ない」 メイの言葉に女神の身体がびくり、と震える。 「……その身体は、もともとあんたのもんだ。返せってぇんなら、返すさ。 ただ……判るだろ? ここでは、世界を滅ぼす必要はない。まもなく、期限の二千年が経つが、あのときの再現をする必要はねえんだ。 それと……オレの友達が困ってる。できれば……」 メイは言葉を切った。 彼女の本体は聞いていない。 「……いない…………ラーが……。彼のいない世界など……」 「!」 うつろな表情で呟き続けるメイファンディールの姿に、メイは戦慄を覚えた。 二千年に一度の滅びは、人類の滅亡を避けるため、ある割合以上の人口を残すようにプログラムされている。 だが、ラーハイトがいないなら、すべてを滅ぼしてしまえという結論に達してしまうのか。この女神ならこの封印空間から脱出するなど容易いことだ。 「やっぱり、その身体、返しやがれ! おまえになんて、預けておけるか!」 メイは叫んだ。 もう誰も、自分のせいで死んでいくところなど見たくはない。
「そーいやこの絵、イーファに似てるよな〜」 エルドリックが絵とイーファを交互に見ている。 水色の髪、額にある第三の目。それはこの国を守る蒼月の女神の姿。 「確かに……イーファの髪を水色にすれば」 ジグニスは目を細めてイーファを見た。 いつのまにか、ジグニスとイーファの仲は噂されるほどになっている。 種族が違うため、結婚は認められていないし、子供が産まれることもないのだが。 それ以前に、実際の二人の間には、噂されるようなことは何もない。城でも一、二を争う堅物のジグニスに恋の噂が立ったことが珍しく、話だけが暴走した、というのが実体だ。 「光栄です……。女神・メイファンディールに似ているなんて」 イーファのはにかんだ笑みが少々、強ばっている。 フォレスの民に神を信仰する習慣がない故か、それとも。 「……イーファ?」 表情の不自然さに気づいたのか、ジグニスが気遣わしげに声を掛けてくる。 「ああ……なんでもありません。ごめんなさい」 ここは城内部の教会だ。イーファがここに足を踏み入れたのは実は初めてなのである。宮廷の人間が祈りを捧げるための場所だから、神を信仰しないイーファが立ち寄らないのは当然だが、今日は誘われて来てしまった。 まさか、壁に掛けられた女神の絵が、自分の肖像画だなどと言えるはずもない。 「部屋に戻りましょう。リックはどうしますか?」 「ああ、もうちょい、ここにいるよ」 王子はひらひらと手をふった。本人的には気を使ったつもりだが、もちろんその甲斐なく何も進展がないのは予想の範囲内だ。
エルドリックがようやく自室に引き上げたとき、バルコニーから不自然なものが見えた。庶民が通うための教会のひとつ、その屋根に人影が見えたのだ。
「まさか、こんなところで会うとはな」 声を掛けられた方は驚かない。エルドリックの接近には気づいていたようだ。 「会えて嬉しいぜ〜、<蒼の影>」 語尾にハートマークでもついていそうな口調に、<蒼の影>の冷ややかな視線が返される。 追う方も追われる方も、不安定な足場でどちらに軍配が上がるかは承知しているので、勝負をする気はないようだ。 「……よく、オレがここにいると気づいたな」 マナが死んだ遺跡を共に脱出して以来、二人は何度かこうやって会っている。<蒼の影>がいる場所にエルドリックがやってくるというのがパターンだ。 ただ、王子が怪盗をうまく見つけているのか、それとも怪盗が王子の目につく場所にいるのか、それは本人たちにもよくわからない。 「ん〜、愛の力、かな?」 「……馬鹿。女なら、誰でもいいくせによ」 エルドリックは、それには意味ありげな目線だけを返した。 「にしても、な〜んだって<悪魔>が教会なんかにいるんだ? ま、屋根だけど」 「自分のアイデンティティについて検証していた」 「は?」 「おまえらが崇めてる女神は、古代魔法帝国の連中から見れば、悪魔そのものだろう。自分たちを狂わせ、殺しあわせた……な」 「おれらの先祖にとっちゃ、救い主だからな〜。ああ、おまえら<悪魔>にとっちゃ、主を滅ぼした元凶かぁ……。 つってもよ、おまえだって直接見たわけじゃないんだし」 <悪魔>の寿命は人間と変わらないというのが定説である。 だから何故<蒼の影>がそんなことを気にしているのかが解らない。 エルドリックは、月光に照らされた<蒼の影>の怜悧な美貌にしばし見惚れた。 「おまえも、よく見ると似ているかもな。髪の色も瞳の色も。イーファも似ていると思ったが……」 「………………。 もし。もしオレが、蒼月の女神のように、この国を滅ぼそうとしたら……おまえはどうする?」 「そりゃあ、止めてみせるさ。……愛の力で?」 ごきゅ。 <蒼の影>の、無言の拳が飛んだ。
「オレは……リックとジギーのためにも! 二度と殺戮など! 奴らがいなくても関係ねぇ! オレは奴らに誓った! だから、その身体、オレに寄こせっ!」 <知的完璧幻覚>の勢いに押され、滅びの女神が怯む。 愛するもののためだけに滅びをもたらしていた女神は、心の支えを失ってもろくなった。 逆に、大切な人たちのため、そして自分自身のために殺戮を食い止めようとしていたメイは、大切な人々と会えなくなっても、彼らの思い出と絆を支えに、強くあることができた。 そして、彼女の中で何かが弾けた。 髪が短くなり、服も動きやすそうな衣装に戻っている。 「………………。思ったよりも、効いたみたいだな、<保険>は。 ご苦労だったな、消えていいぞ」 メイが命じると、幻覚のメイが姿を消す。 そして、成すべきことを成すために、彼女は走りだした。
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