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Fantasy@Earth 作者:黒木美夜

第27回   結花の物語2
「結花ちゃん」
 いい香りのするカップがそっと差しだされた。
 結花は紅茶の種類はよく知らないが、差しだしてくれた人が好きなのはアッサムかアールグレイだ。ミルクがたっぷりと入っている。
「ありがとう……ございます」
 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、結花は文女からカップを受け取った。
「ちょっとは落ち着いた?
 ……ひどい顔よ。それを飲んだら顔を洗ってらっしゃい。そんな顔、章良に見られたくないでしょ?」
 文女は真っ白なタオルも貸してくれた。
「酷なようだけど……。真臣はもう帰ってこないわ、きっとね」
 結花が頼もしい兄貴分として慕っていた真臣が消息を絶って二週間が経つ。
 いなくなったと聞いたとき、信じることができなかった。けれど毎日のように会っていた人が本当に姿を見せなくなり、真臣の一族は本家の跡取りが失踪したことで、従弟の章良を次期党首候補として見始め、本格的に養子の話も進みだした。
 ようやく結花にも真臣がいないということが実感できるようになり、不覚にも泣き出してしまったのだ。
 それも、章良と文女の目の前で。
 自分よりも濃密な人間関係を真臣と築いていたはずの人々の前で。
「……ごめんなさい。私より、文女さんや章良の方が辛いはずなのに」
「………………」
 文女は黙って結花を見つめた。
「でも、あれだけ強い真臣さんが、<狭間>で消息を絶つなんて、私……信じることができなくて。
 今も、ただ旅行か何かに行ってるだけで、急に帰って来るんじゃないか……なんて。ひょっとしたら、どうしても行けないあの<まほろば>に行く方法を見つけて、一人で探検してるだけかもって、思っちゃって」
 背中に添わされた文女の手が、少し強ばる。
「……あそこは、人の住めない世界……そう言われているのは、知ってるわね? だからこそ、私達の先祖はあそこを捨てたのだって」
「はい……でも。<狭間>から見えるあの世界はとっても……綺麗だから。住めない世界だなんて思えなくて。虎之介だってフェンリルだって、あそこから来たんだし……」
 フェンリル、というのは章良と契りを結んだ異界の生物だ。狼に似ているからと、北欧神話の氷の狼から名を取った。
「でも、私達はあの世界……<まほろば>には行くべきじゃないの。私達が生まれたこの世界と、<狭間>だけで充分じゃない? <狭間>を知っている人だって、世界の人口の0.001%もいないはずよ。それを知っていて、さらに行くことができるっていうだけで、私達は幸運なの。
 ……真臣のことだってそう。彼のことを知っている、彼のことを覚えている。私達は、その幸せに感謝しなくちゃ。彼のことを思って泣くこともときには必要だけれど……、私達は、彼に縛られてはいけない。大切なのは、忘れないであげるってこと。ね?」
「……はい」
 まだ泣きはらした目のままで、結花は頷いた。
 文女の言いたいことを本当に解っているのかどうか。
「……少し、英語の勉強をしましょう。
 Cry for the Moon.これくらいは、学校で習ったわよね?」
「月を求めて嘆く……って諺ですよね。月は、手の届かないもの……」
「そう。
 いなくなった人も、滅びた世界も、月と同じ。
 思い出の中に、<狭間>の向こうに、間違いなく見えるけれど、もう触れることができないもの。
 私達はね。生きて、この世界に生きている限り、この世にあるものだけで満足しなければならないの。過去も未来も異世界も。すべてが今生きている現実より、よく見えることもあるけれど……。それでも、この世界にしがみついて生きていくしかないのよ」
「………………」
 結花は黙ったままだ。
 文女の言葉を聞くなら、真臣は死んだものと考えろ、そういうことにしか聞こえない。行方不明だ、と聞かされただけなのに。
 それならそうと、何故言わない。何の事情も知らされずにただ納得しろと言われたところで、できるはずがない。
 文女も、それは解っているのだろう。けれど、彼女も今はこれしか言えないのだ。
「………………。
 そうね、今日は、真臣のためにたくさん泣いてあげて。結花ちゃんみたいに可愛い子に泣いて貰えたら、あいつも喜ぶし、ね。
 でも、明日からは結花ちゃん自身と、その周囲の人達のために頑張って笑っててちょうだい。
 それと、紅茶も飲んでね? すっかり冷めちゃったけど」
 頷いた結花をおいて、文女は章良を待たせてある部屋に戻った。
「……あら?」
 その章良がいなくなっている。荷物もなくなっているから、帰ったのだろう。
 黙って帰るような少年ではなかったはずだが。
 素直じゃなくて、つっけんどんなところのある少年だが、周囲の人間のことはちゃんと考えられる子だ。
 けれど、結花の泣き顔に居たたまれなくなったのだろうと、文女は解釈し、彼のために出していたマグカップを片づけた。
 だが、これ以降、章良が文女の開く呪糸の勉強会に参加することはなくなったのである。

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Novel Editor