<天の樹>は、そこに住む人々が知る限り、もっとも安全な住処だった。 とはいえ、奇怪な進化を遂げた猿や鳥が襲いかかってくることは日常茶飯事だし、ときに人が爆発するようにその姿を変え、同胞を屠ろうとすることもある。 その日も、居住区から悲鳴が聞こえた。 「メイシン! 誰かが異形化したらしい!」 居住区の遙か上に住む怪鳥を退治し、その巣にさらわれた子供を助けだしたばかりのメイシンに、誰かが助けを求める。 「本当か!」 助けた子供を仲間に託し、ひょいひょいと身軽に太い枝をメイシンは降りていく。彼女はまだ十二だが、すでに<天の樹>最強の<変異体>の一人だった。 見た目は普通の人間と変わらないが、その筋力と瞬発力は群を抜き、他の明らかに形質の異なる<変異体>を凌駕できる。 居住区で<異形体>が現れたとき、ちょうど他の<変異体>が狩りのために出払っていたこともあり、彼女に助けが求められるのも無理のないことだった。 メイシンはあっというまに巨大な樹を降り、居住区にたどり着く。 人の住む場所は<天の樹>にいくつかあるが、彼女が住むのはその中の最大の居住区だ。 そこは幹が五股に別れている場所にあり、多少でこぼことしてるところに強引に粗末な家を立てただけの所である。 「どこ!」 人が指さす方角に走る。 すぐに、<異形体>を遠巻きにしている人の群を見つける。 「どいて!」 <異形体>となってしまえば、いかに同胞といえども人間を襲う怪物。旧文明の残したガスだの放射能だのいうものが、時にじわじわと、時に一気に、人の姿を変えるもので、その人物に責任はないけれど、被害を最小限にするため、他の人間が生き残るため、殺してしまうのが常である。 メイシンも、そのことに疑問をもったことはない。 現に今も、目の前で女性が一人、殺されようとしている。 紐の先にくくりつけた鉄球を振り回す。 「せいっ!」 勢いよく投げたそれは、狙い違わず怪物の頭を潰した。 周りから歓声があがる。 同時に、怪物の下敷きにされていた女性が、慌てふためいて逃げてきた。 「大丈夫?」 女性が頷くのを見て、<異形体>に近づく。稀にだが、頭部を破壊しても死なないものがいる。皆の安全のためにも、かつての同胞を早く楽にしてやるためにも、完全にとどめを刺す必要がある。 「………………?」 この<異形体>は変化前の面影は全く残っていない。誰が人間であることを捨ててしまったのか、一見判らなかったが。 怪物が纏っていた服の残骸。その布には見覚えがある。 昨夜、メイシン自身が繕った、父親の服。 「…………まさか」 よりによって、たった一人の肉親が、異形と化してしまうなどということが。 「そんな……こと」 ないと信じたい。だが、どうして父は駆けつけてこない。自慢の娘の活躍を、いつもまっさきに褒め称えてくれる人なのに。 「……!」 怪物の手がぴくりと動いた気がして、メイシンは身構える。 だが、しばらく見ていても、それは動く気配をみせなかった。 (……気の……せいか?) ほぉ〜っと息を吐く。 きっと何かの間違いだ。誰かが、父の服を借りただけ。父が来ないのは、<天の樹>の実でも取りに行っているだけ。 ならば父を捜そう。あの優しい笑顔を見れば、もやもやとしたこんな不安は吹き飛ぶはず。 メイシンは身を翻し、その場を去ろうとした。死体の始末は誰かがやってくれる。 三歩歩いたところで、まだ遠巻きにしていた人々が再び悲鳴をあげる。 「!」 振り返った彼女に、頭のない<異形体>が襲いかかる。 父かもしれない化け物が。 「いやああああああ!」 鉄球を繋いだ紐の反対端に、刃のリングがある。それを、反射的に振り上げた。 ばしゃばしゃと、顔に熱い液体が降りかかる。 「あああああああ!!」 喉が切れそうな程、悲鳴をあげた。 その後のことは、よく覚えていない。 何度も声をかけられ、我に返ったときには、浴びるほどにかぶった血は綺麗に拭われ、汚れた服は着替えさせられていた。 家に帰った彼女は、じっと父の帰りを待った。 だが、遂に彼女の父は、帰ることはなかったのである。
そして、メイシンは故郷を旅立つことを決意する。
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