青い空。 青い海。 どこまでもどこまでも広がっていく、遙かなる世界。 ワンッワンッ! 真っ白な砂を蹴散らし、焦げ茶色の毛皮を纏った犬が駆けていく。 「ジョン! 待ってよぉ!」 少々情けない声を上げながら、十になるかならずかの、赤いワンピースの少女が飼い犬の後を懸命に追う。 「きゃあ!」 砂に足を取られ、女の子が転んだ。 砂がふわりと彼女を受け止め、怪我はないけれど、ざらざらとした砂が手足にまとわりつき、少々気持ちが悪い。 くぅ〜ん…… 幼い主の異変を感じ取ったジョンが戻ってきて、鼻先を少女に押しつけた。犬なりの気遣いなのだろう。 「えへへ……」 「……大丈夫?」 優しい犬の行動に笑みを浮かべた少女の目の前に、大きな手が差しだされた。 二十歳をいくらかすぎた、旅装束の青年が手をさしのべてくれていた。 「うん……」 先ほど砂浜に誰かいただろうかと訝りつつ、女の子はその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。 「お兄さん、こんなところで何をしているの?」 海に入るにはまだ少々水は冷たいし、ここには食用に向く貝もない。景色は綺麗だが、同じ光景が何キロと続いているので、わざわざこんなところに出向く旅人はいない。 「ちょっと、捜し物をね」 「さがしもの……?」 こんな何もない、ただ広いだけの海岸で、何を捜すというのだろう。 「……聞いてごらん」 近くに落ちていた淡い桃色の巻貝を、少女の耳に近づけた。
ーーあははは ーーもうっお兄ちゃん! ーーここまで来てみろよ ーーひっど〜いぃ
貝の中から、幼い兄妹の声が聞こえる。 「これはなぁに?」 貝が喋るなんて、知らなかった。 少女は、青年を見上げた。 「……君には、まだ判らないかな」 ひどく懐かしいものを見る顔で、青年は少女を見つめる。 幼い日の自分を見るような。 「これはね、誰かがなくした思い出なんだ。 大人になると、誰もが持っていたはずの子供の頃の思い出を、どんどん忘れていってしまう。僕はそれを捜しているんだよ。自分の記憶を」
人が忘れた思い出は 深くて暗い海の中 近く遠く 遠く近く
波に漂う思い出は まどろむ貝の夢となる 遠く近く 近く遠く
「人は誰もが、不要な記憶を消し去りながら生きてる。 でもそれは、本当にいらないものなのだろうか?」 青年は犬の頭を撫でた。 犬は尾を振ってそれに答える。 「ねえ、君。 君は、彼と散歩しているこの瞬間を、いらない記憶だと思うかい? それとも、かけがえのない……大切なものだと思うのだろうか?」 「大事!」 問われて、少女は間をおかず、断言した。 とても無邪気な瞳で。 「だって、あたし、ジョン大好きだもん」 「……そうか。そうだな。 つまらないことを聞いたね」 立ち上がる青年を、少女の目が追う。 浮かべられた優しい笑みの、けれどどこか空虚な彼の姿を。 「ううん。いいけど……。 お兄ちゃんは、これからどこに行くの?」 「……判らない。僕の思い出は、どこにあるんだろう。 そもそも……忘れてしまったものを見つけても、それが自分のものだと判るだろうか?」 とてもとても欲しいのに、それがどんなものかも判らない。 「どうしても、捜さないといけないものなの?」 「生きていくには、必要のないものなんだろう。だから、失ってしまった。 でも、ふと立ち止まったとき……それが必要だと感じることがある。まっすぐに夢を追えていたあの頃の、混じりけのない想いを、今の自分の支えにするために」 「見つかると、いいね」 「ありがとう」 青年が微笑む。 そのとき、浜辺に降り立とうとしたカモメを追って、犬が走りだす。 紐を持ったままの少女も、引きずられるようにして走りだした。 「ジョン!」 愛犬を叱りながら、少女は振り返った。 ちゃんとさよならくらいは言いたいと思って。 だが、そこには。 最初から誰もいなかったように、静かな砂浜が広がっているだけだった。
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