重い瞼を無理に持ち上げた。 目を開いても、見えるものは変わらない。 真闇。 今まで、一片の陰りもない場所にいたせいで、そこはとても恐ろしい場所に思えた。 そう、ここには光がない。 愛してやまない存在の、栄光と威光。 世界をあまねく照らすはずのそれが、届かない深い深い、大地の底。
ーー寒い
身震いし、上を見上げた。 遙か頭上に、ほんのわずかに見える光条。 冷え切ったこの場所で、それはかすかなぬくもりだった。 愛するものにつながるものだった。
ーー行かなければ
翼を広げる。 血なまぐさい風が巻き起こる。 かまわず、羽ばたいた。 鼻につく、錆びた臭いは不快だったが、それよりも光に行き着くことが大切だった。 いったい、どれほど飛んだだろうか。 歩くことより飛ぶことに慣れたはずの翼が悲鳴をあげそうなほど痛い。
ーーあと、少しだから 痛みに耐えて、光の中に飛び込んだ。
薄暗い。 なんのことはない、何も見えない闇の中だから、黄昏さえも明るく見えたのだ。 そこは、戦場だった。 正確に言うと、戦場跡だった。 夕焼けに照らされ、血の川がなおさら赤い、紅い、緋い。 無数の人の死体が足下に転がっている。 腕がちぎれ、足がもげ、腹が割かれ、首が断たれている、数え切れない死体たち。 少し前までなら、その惨状に心を痛め、山をも揺るがすような慟哭をあげていただろう。 だが、今はそんなものはどうでもよかった。
ーー人間など
ーー人間など、滅びてもかまわない
一瞬、自分の思考に驚く。 だが、すぐにそれでいいと思い直した。 この愚かな存在のせいで、私はあの方に厭われたのだから。
ゆっくりと歩きだした。 パキリと音を立てて砕けたのは、大腿骨だろうか、それとも頭骨だっただろうか。 裸足に骨の欠片が刺さり、折れた剣が食い込み、どろどろとした血がまとわりついたが、歩き続けた。 いったい、どれだけ歩いただろう。 夜に向かって進み、夜の中を彷徨い続けた。
月と星が照らす闇の中で。 大人が子供を殺していた。 男は女を犯していた。 賄賂が行き交い、密約が交わされる。 飽食する富豪がいて、飢える貧者がいる。 民族が違うと、虐殺されるものがいた。 濡れ衣で私刑されるものもいた。
ヒトの世は、永遠に夜が支配するものかと思われた。
それでも、朝は訪れる。 眩しさに、闇に慣れた目がくらむ。 遠くに、さらにキラキラと光るものが見えた。 川だ。 日の光を受けて、ゆるりと流れる水が輝く。 少しでも日照りがあれば干上がってしまいそうな、小さな川だ。 それでも、汚れた素足を洗おうと近づき、自分自身の姿を水面に認めた。
ーー翼が
汚れ無き純白だったはずの翼が。 右の翼は闇の色に。 左の翼は血の色に。 天まで飛ぶことの出来ない翼に。
ーー変わっている
その事実を受け入れる前に、絹を裂くような女の悲鳴が響いた。 見れば、女は腰を抜かし、怪物でも見たような顔でがくがくと震えている。 何かいるのかと思い、振り返るが、何もいない。
ーーああ、私のことか
思った瞬間、腕が動いた。 思ったよりさらさらとした血と、ぬめるような腑が腕に絡みつく。 思ったほど、不快じゃない。 世の中は、私が『思った』ことと違うことが、案外多いようだ。
思ったことと違うといえば。 人間の脆さも、想像以上だ。 あの方は、こんな脆弱な生き物の方が、私よりも大事だと宣うのか。 こんなにも力強く、英知を備え、なによりかのお方を愛する私よりも。 この私に、『ヒトに仕えよ』と命じられるほどに。
ーー許せない
ーー許せない
ーー許せない
否、許す必要などどこにある?
奴らは私から<神>を奪った。 奴らさえいなければ、私はずっと<神>のお側に仕えることができたのに。 この世の時が果てるときまで、<神>の賛歌を高らかに歌い続けられたのに。
奴らのせいで、私は<神>に天から堕とされた。
ーー私は二度と
<神>に会えない。
これが、私への罰なのか? 地獄の猛火で永劫に焼かれるよりも辛い、辛い、この苦しみが? もっとも<神>を愛するものへの、仕打ちなのか?
あなたがヒトを愛するならば、私はヒトを誘惑しよう。 愚かな人間が、<神>よりも私を愛するように。 あなたがヒトを守るならば、私はヒトを滅ぼそう。 脆弱なる人間がいなくなれば、<神>は私を愛するしかなくなるから。
私はあなたの影となる。 私はあなたの対となる。 私はあなたの敵となる。
あなたの愛するすべてを無に帰すために。
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