高い高い場所から、僕は下を見下ろしていた。 停められた数台の車。わらわらと群がる人たち。 その中央に、『僕』がいる。 そして、遠くから救急車がサイレンを鳴らしながら近づいてくるのが見えた。
運ばれていく『僕』を見ながら、僕は少し、困っていた。 あれが『僕』なら、ここにいる僕はなんなんだろう。 『僕』は死んでしまって、この僕はいわゆる魂とか、幽霊とか、そういうものっていうことなんだろうか。 霊の存在を信じるかどうかって言われれば、『あってもいいじゃないか』ってくらいで、積極的に信じるわけでも、否定するわけでもなかった。死んで、そのまま何もなく終わってしまうのはなんだか寂しい気がしたから、『あってもいい』と言ってただけだ。 今は僕自身が、紛れもない霊の存在の証拠になってしまったから、これは信じざるを得ないよな。 このままテレビ局にでも自分を売り込みに行けば、大騒ぎだろうけれど……。宙に浮いている僕に、下で事故処理をしている誰もが気づかない。テレビ局に行っても、まさに誰にも相手にしてもらえないはずだ。 一躍有名人になるチャンスは、僕の人生にはなかったってことか。 残念だな……と思っている僕自身に気づき、僕は苦笑した。 苦労して就職したばかりだというのに、同期に気になる女の子ができたところなのに、養育費や教育費をさんざん費やさせた親に何も孝行する間もなく、僕の人生は閉ざされてしまった。 それなのに、どうしてこんなに冷静なんだろう。それとも、こんなバカなことを考えているっていうのは気が動転しているからなんだろうか? いや、本当に動揺してるなら、自分が冷静かどうかなんてことすら考えないはずだ。 死ぬのは怖いってずっと思ってた。 でも、そんなのはまだまだずっと先だと思ってた。 あまりに突然で、まだ自分が死んだという実感が湧かないだけなんだろうか。 それとも、死ぬと驚くという感情をなくしてしまうのか。 案外、僕は生に執着していなかったのかもしれない。 あるいは……この高みから下を見下ろして、自分の死がちっぽけなものだと気づいたとか。それはそれで、寂しい気がするけれど。 ああ、そうだ。 僕が本当に死んだのなら、死後の世界というやつに行かなくていいんだろうか。 どうやって行けばいいのか、さっぱり判らないけど。 と思ったら…… 僕は、眩い光に包まれた。
「いやぁ、お客さんは楽で助かったよ」 中性的な、若い人が目の前にいた。服は何かの制服みたいだけれど、見たことがない。 「お客さんて……僕?」 「そうだよ。この列車は、世界各地の死人を拾って、お客さんたちが『死後の世界』って呼んでるところにお連れしてる。列車は死にたての幽霊がいるところ、自動で行くから、私の仕事はそれを回収することだね。 でも、中にはけっこういるんだよ。現世に執着があるのか知らないど、回収しても一部分だけ残って地縛霊になったり、逃げだして浮遊霊になったり。 困るんだよね、そういうのが増えると、私達が怒られるんだから」 心底うんざりした顔で、その人は言った。 「おっと。こんなこと、お客さんに愚痴っても仕方なかったね。失礼した。 まだ『あの世』に着くには時間がかかるから、この先で座って待っててほしい。で、その間にこれを書いておいてもらえるかな?」 「これは?」 渡された紙を眺めすがめつ僕は訊ねた。 「アンケート用紙、だよ。 昔はね、いわゆる閻魔様が来世に何になるかを決めてたんだけど、最近は本人の希望もある程度は聞くべきじゃないかって。もちろん、悪いことをいっぱいした人は地獄で罰を受けなきゃならないし、そんな人の希望を聞く義理はないってんで、そういう人たちにはアンケートなんてしないけど。 魂を回収する列車も別にそれ専用の列車があってね。人間の世界の監車に似てるかな。 あ、話がそれたね。とにかく、来世の適性を見極める診断テストとか、希望欄とかあるから、ゆっくり書いててよ」 「ああ……」 あの世というのは、僕の想像とはだいぶ違う世界みたいだ。 「そうそう、数が少なくて、希望者の多い生き物なんかを希望すると、適性検査で落とされたり、抽選漏れしたりするからね。単純に『鳥』って書くと、個体数の少ない猛禽にはまずなれなくて、雀とか鳩とか鴉とか鶏とかにされちゃうから、希望は具体的に書いた方がいいよ。鳥って、競争率が高いらしいんだ。人間って、飛ぶのが好きなんだね」 「判る気はするよ。空は自由って気がするから。 いろいろ教えてくれて、ありがとう。ゆっくり考えてみるよ」 「ああ。がんばれ」 その人が手を振るのに背を向けて、僕は客車の方に向かった。
しかし、いざ『何になりたい?』と問われても難しいものだ。 単純に、また人間に生まれるのもいいと思う。 けど、どうせなら今度は違う生き物を体験してみるのもいいかと思ってしまう。 さっき聞いた、『鳥』っていうのは魅力的な案だと思う。鳩や雀になって街で暮らすのや、鶏になってケージの中で一生卵を産み続けるのは嫌だけれど、渡り鳥になって世界を翔けるなんて、魅力的じゃないか。 それをいうなら、魚もいい。イルカやクジラも。海流にのって、大洋を自由に泳ぎ回るのだ。 「ねぇ、あなたは何にした?来世の希望」 隣に座っていた女性が声をかけてくる。 「私はね、猫になりたいってずっと思ってたから、猫って書いたわ。野良の生活は厳しいと思うけど、でも、日向で寝ている猫って幸せそうじゃない?猫も希望者が多いらしいんだけど、野生動物と違って数を増やす余地があるから大丈夫だって。でも、『たくさん生まれたから』って捨てられることもあるから、それは覚悟してねって言われたわ」 そうか、好きな動物になるというのもありなんだな。 彼女にとっては、自分に肉球があるとか、毛皮が生えているとか、三角形の耳があるとか、たまらないことなんだろう。 僕は彼女に適当に返事をして、再び考えることにした。 どうせなら、まったく違うものになってみたい。 地上に残された最後の楽園のような場所で、ずっとずっと、ゆったりと流れる時間の流れに身を任せて生きるのだ。人間の盛衰を、この世界の行く末をいつまでもいつまでも見守りながら。 僕は、思いついたその希望を、アンケート用紙に書き記した。
屋久島、自然保護地区。 倒木の影にこっそり隠れるようにして、屋久杉の若木が風に揺れていた。まだそよがせるほどの葉はついていない。近くの親木に比べると、なんとも弱々しく、儚げな姿ではあるけれど……今後、数千年の年月を生きる気概を込めた姿で、その木は、天を指していた。
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