サク、サク、と雪を踏みしめる音をたてて、二人の娘が歩いている。 三日間降り続いていた雪はようやく止んだ。だが、身体の芯に射しこむような寒さは、ちっともゆるまない。 もう何年、この大地は雪に閉じこめられているだろう。 厚い外套を着込み、フードで頭を多った二人は言葉少なに歩いていく。 その先に、街の灯りが見えた。 これで少なくとも暖房の効いた暖かな部屋に入れる。 どちらともなく、安堵の息をもらした。
「え? 春を捜している?」 宿屋の主人は、二人のためにホットミルクを用意しながら、そう聞きかえした。 「そう。何か、噂でもいいの。聞いたことない?」 「ないねぇ。このあたりは特に冬の精霊が猛っている場所だ。春の精霊なんて、いないんじゃないか?」 「ねぇ、パパ。『はる』ってなぁに?」 十歳ほどの少女が主人に訊ねる。 彼女は知らないだろう。この、何年も続く冬しか知らないはずだ。 「そう……」 ショートヘアの、少し気の強そうな娘が落胆を全面に押しだした。 宿帳にはルキアと記されていた。 彼女は幼い時分に『春』を経験したことがある。はっきりとは覚えていないけれど、麗らかな日の光と、寝転がると気持ちのいい草原。そこに漂う花々の甘い香り。そんなものだけを漠然と覚えている。 冬の精霊をこの土地から追い払えるのは、春の精霊だけだ。春の精霊は夏の精霊に場所を譲り、夏がこの地を去ると秋の精霊がやってくる。秋を追い立てるようにして冬が訪れ、そしてまた春の訪れと共に冬が逃げていく。 だが、春の精霊がいつまで経ってもやってこない。 魔王に捕まったのだとも、冬がこの地に居座るために春を閉め出したのだとも、人間に所業に愛想を尽かした春の精霊がこの地を去ったとも言われている。 「まぁまぁルキア。 空振りだって今に始まったことじゃないし」 もう一人の娘がルキアの肩をポンポンと叩いた。ほんわかした雰囲気の髪の長い少女だ。宿帳に書いていた名前はファム。 見た目は二人は同年代だが、ファムの尖った耳とピンクというとんでもない色の髪は妖精の証。彼らは見た目は若いままで人間の数倍の年月を生きるから、その年齢は推測できない。 「はぁ〜、ファム、あんたそれ慰めになってないわよ」 「ほえ?」 何故ため息をつかれたのか判らず、妖精は首を傾げた。 「ま、いいけど。 最初に会った頃は、記憶喪失なせいでズレてるのかと思ったけど、あんたのは間違いなく天然ね」 「えへへ〜」 「いや、別に、誉めてないから」 照れるファムになおざりなつっこみを入れつつ、ルキアはホットミルクに手を伸ばした。器が熱いが、その熱さが冷え切った身体に嬉しい。 「で、ちょっとは何か思いだしたの? 自分のこと」 ファムという名前もルキアがつけたのだ。 「ううん。全然」 成り行きで旅を一緒に旅をするようになって五年ほどが経つ。本人は記憶がないことを気にする様子はないけれど、ルキアとしてはさっさと記憶を戻させて、本当の家族がいるところに送り返したい。もともと、一人旅が好きな性分なのだ。けれど、ファムを放っていくこともできないあたり、彼女も人がいいのだが。 「わたしは、思いださなくてもいいけどな。ルキアといるの、楽しいし」 「…………」 人の気も知らないで、と口の中でルキアは呟いた。
翌日、街の外を散策する。 もしかすると、人間は気づかない『春』のかすかな気配を、動物たちが感じているかもしれない。 「あ!」 ファムが嬉しそうに駆けだした。 「見て見て、ルキア! ウサギの足跡だよ〜」 「あんたねぇ、そんなの、もう何度も見たでしょ」 つれない態度でさくさく歩いていくルキアの後ろ姿を、ファムは慌てて追った。 「あぁん、待って〜」 パタパタと走っていくその後ろ姿を岩陰に隠れて見送っていた白いウサギが、大急ぎで巣穴に帰っていく。彼らには判るのだ。冬の精霊の機嫌が悪くなる前兆が。
びゅうぅぅぅううう 突然の冷たい風に、ルキアは首を竦めた。 マフラーを巻き直し、気温の低下に備える。 「なんだか、急に雲行きが怪しくなってきたね」 ファムも外套のボタンを一番上まできっちりと留めた。 「街に戻った方がよさそうね」 これは、吹雪くかもしれない。ルキアは来た道を振り返った。 「……もう、手遅れかも」 珍しく少し引きつったファムの声が聞こえる。 彼女はまだ前を向いたままのはず。 そう思い、ルキアはもう一度振り返った。 「!」 猛吹雪が二人を襲う。 一瞬にして、視界は真っ白に覆われた。 外套越しでも斬るような痛みを伴う寒さ。 あっという間に体温を奪われてしまう。 「……っ」 ルキアの膝が崩れ落ちる。 「ルキアっ!」 ファムの声が聞こえた。 こんなときでも、彼女の声はどこかのんびりしている。そして、どこか暖かい。 ルキアは寒さに強ばる身体を強引に動かし、ファムを見た。 彼女は執拗な吹雪の猛攻を受けている。 いくら妖精だといっても、人間と同じように死は訪れる。 それなのに、ファムは倒れたルキアの身を案じ、彼女を助けようと吹雪に行く手を阻まれながらも進もうとしている。 「ファム……だい、じょ……ぶ……?」 ギシギシと身体が悲鳴を上げるのを無視して、ルキアは立ち上がった。 自分が、ファムを助けなければ。 頼りなくて、ぼうっとしてて、目が離せない子だから。 「ファム……っ」 「ルキアぁ」 二人が互いの名を呼び合ったとき、いっそう冷たく、強い風が二人の間に割り込む。 「……っ!」 風圧で、呼吸がつまる。 「い……」 ファムの声が風に吹き飛ばされそうだ。 「いやぁああああああ!!」 その風を割って、悲鳴が響く。 白く厚い風の壁の向こうで、何かが強烈な光を放った。 その光に懐かしさを感じつつ、ルキアは意識を手放した。
「ん……」 気持ち悪さに目が覚める。 「……あつい」 気持ちが悪いはずだ。全身汗だくである。 ルキアはマフラーを外し、外套を脱ぎつつ起きあがり…… その手を止めた。 青々と茂る草原が、サワサワと唄っている。 色とりどりの花が甘い香りを放ち、暖かな風がそれを運ぶ。 「これは……」 紛れもなく、かつて目にした、懐かしい……『春』だ。 「あ、ルキア」 呼ばれた方を見ると、すっかり薄着のファムがにこりと笑っていた。 「あったよ。春」 「うん……」 ピンクの髪を風になびかせ、草原の中に立つファムは、ルキアが長年胸に思い浮かべていた『春の精霊』のようだった。 思わず、ぼうっとその姿を見つめてしまう。 「……そのカッコ、暑くない?」 不思議そうにそう言われ、暑さと羞恥でルキアの顔がのぼせたように赤くなる。 慌てて、服を脱いだ。 「それにしても、どうして……」 突然春が来たのだろう。 「ルキア」 「え? なに?」 ファムがルキアに顔を寄せる。 「今まで、ありがとう」 そっとささやき、ふわりと離れた。 「え? ファム、思いだしたの?」 その質問には笑って答えず、ファムはゆっくりと離れていく。 心なしか、花の霞に溶けゆくように、ファムの姿が薄れていくような。 いや、本当に彼女の姿が透けていく。 春の風に、花びらが舞った。 「! ファム!」 名を呼ぶが、その姿はどこにもなかった。 「ファム! どこに行ったの!」 厄介払いしたいと思っていたのに。 まさか、突然いなくなるなんて。 『ルキア……』 風が囁く。 『ルキア、あたしは、ここにいるよ』 「ファム?」 『春の花咲く草原に、暖かな日差しを乗せた空に、甘い香りを運ぶ風に、雪解けの水を運ぶ小川に。 あたしはいるよ』 ルキアの周りを、風がクルクルとダンスするように、色とりどりの花びらを舞わせながら、回っている。 「ファム、あんたまさか……」 『年に一度、あたしはルキアに会いに来る。 ルキアとの旅、楽しかったよ。ありがとう』 ふわりと、ファムが微笑んだ気がした。 風が、散る。 世界すべてに、春を運ぶために。
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