奈津子の父親は黒なのかもしれない。 玲子の云うことが真実なら、それを放っておくことは出来なかった。
シリウスの件は、いずれ調べてみる必要がありそうだ。 たとえ別れても、奈津子のことは心配だった。
「……だからって、何故今になってそんなことを」
「奈津子は、あなたが大好きだった。それを知って欲しかった」
「それは、君自身の自己満足のためじゃないのか?」
「そうかもしれません」
「どうして、奈津子はそれを僕に云わなかったんだ」
「云えなかったんです。奈津子は、ただ怖かったのだと思います」
「…………」
「引っ越しや子供のことを楽しそうに話す貴方を見て、云えなくなったんです」
「僕が真実を知って、奈津子から去っていくとでも思ったのか?」
「それなら……どうして聞いてあげなかったの?様子が変だと気づいていたでしょ?」
「それは……」
「卑怯だわ。奈津子を責める資格なんて、貴方には無い」
「……そうだな。資格なんて無い」
「奈津子は、打ち明けようとしたの。でも、何も云えなかった」
「だからって、芝居まで……」
「サヨナラなんて、奈津子が自分から云えるはずないでしょ?」
「…………」
「奈津子は、貴方に最も嫌われる方法を選んだの」
「何故だ?」
「そうすれば、貴方が早く立ち直るとでも考えたのでしょう」
「そんな、馬鹿な……」
「だから、トイレに細工したり……ベッドで……」
「もう、いいよ……過ぎたことだ」
「ごめんなさい」
「だから、君が謝ることはない」
「……ベッドで奈津子が違う名を呼んだでしょ?……あれ……私が勧めたの」
玲子は涙ぐんでいたが、僕は怒りを抑えるのに精一杯だった。 僕は水割りのおかわりをして、煙草を咥えた。
灰皿を見ると、火のついた吸いかけの煙草が二本あった。 僕は、狼狽した。取り乱しているのは明らかだった。
おかわりのグラスを一気に全部飲み干した。 怒る相手は彼女ではない。 その対象は自分自身だというのは分かっていた。
僕は大きく溜息をついて、玲子に云った。
「煙草の吸い殻まで用意して……馬鹿だよ、奈津子は。やっぱり大馬鹿だ……」
一番馬鹿だったのは、他でもない僕に違いなかった。 彼女は怪訝な顔をして僕を見ていた。
「さっきから、煙草の吸い殻とか……何のことです?そんな事はしてませんよ?」
「知らないのか? まあ、今となってはどちらでもいいことだけど」
「……、奈津子の気持ちを酌んであげて下さい」
「僕にどうしろと?」
「今でも気持ちが変わってないのなら、ここに電話してあげて下さい」
玲子はバッグから手帳を出して、書き込んだ後、 ページをちぎってグラスの横に置いた。
そういえば、いつか奈津子が云っていた。 実家に不審者からの電話が頻繁にあったのだと。
その電話の主は手帳を探していたとも……。 その時に、シリウスという言葉も聞いた気がする。
その手帳は何処にあるのだろうか。 それが鍵を握っていることに、ほぼ間違いなさそうだった。
僕は玲子が置いたメモを手にとって見た。
「これは?」
「奈津子の実家の住所と電話番号です」
「あの部屋は、引き払ったのか?」
「ええ。あの部屋に居ると辛いからって」
「このことを、奈津子は知ってるのか?」
「奈津子には内緒なんです。私が勝手にお願いしてるだけで」
「それで……彼女、元気なのか?」
「ええ。もともとが気丈な人だから。子育てしながら、営業に飛び回ってます」
「そうか……」
「今でも、あなたを待っている気がするんです」
「どうして、奈津子の気持ちが分かるんだ?」
「奈津子とは、昨日今日の付き合いじゃないですから」
「だから、奈津子の気持ちが分かるというのか?」
「ええ。奈津子を見てると……気丈に振る舞う姿が、痛々しくて……」
「君は、何も分かっていない」
「え?」
「奈津子が苦渋の選択をして、あんな芝居まで打ったのに……、 君は奈津子の気持ちを踏みにじっているとは思わないのか?」
「もちろん、それは……」
「いや、何も分かっちゃいない。別れてからの1年間。二人で暮らした1年間は、 僕らにしか分からない。分かってたまるか……」
「ごめんなさい……私……」
「君は、何故そこまでして奈津子を?」
「それは……今は云いたくありません」
「そうか……」
「でも、森下さん。どうか奈津子のことを……」
「……。ちょっと云い過ぎた。ごめん。今日は話してくれて、ありがとう」
僕は、手渡された奈津子の連絡先をポケットにしまい込んで、店を後にした。 玲子に僕の電話番号を教えようと思ったが、それは止めた。
だが、今度店に寄ることがあれば、ママにだけは知らせておこうと思った。 もしも奈津子の身に何かあれば、臨機応変に対処してくれるだろう。
奈津子と僕の1年間。他の誰にも分かりはしない。分かって欲しくもなかった。 たぶん僕は、奈津子に連絡をとらないだろう。
運命というものが存在するのなら……それに身を任せるのもいい。 再び奈津子と出会う運命もあるかもしれない。 たとえ、それがご都合主義の現実逃避だと云われても。
奈津子と出会った頃、僕は充分に大人だと思っていた。 たかだか、二十四才の若造のクセに……。
世間知らずで、女一人の気持ちも酌んでやれない、 ただの青二才だった。
それに気づくには遅すぎた……。 いや、人生に遅すぎるということは無いのかもしれない。 だけど、過ぎ去った時間を元には戻せない。
二人で買った月宮殿。 ポツリと咲いた、そのサボテンの花は赤くて小さかった。
トゲトゲに囲まれながら精一杯、 可憐に咲いたあの花は、 奈津子そのものに思えた。
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