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稲波〜プロローグ 作者:kig

第8回   一九九四年三月
奈津子と別れて1年が過ぎ、桜もちらほら咲き始めていた。
あの部屋の月宮殿は、今年も赤い花を咲かせたのだろうか……。

僕は仕事帰りに『BAR バク』に寄った。
一人になってからは、店に顔を出してなかった。
気持ちは、だいぶん落ち着いていた。

奈津子に会えるかもしれないという期待も、未練もあった。
しかし、よりを戻したいという気持ちは、ほとんど無かった。

「あらまあ、いらっしゃい!」

「ママ、元気だった?」

「今まで、何処で浮気してたの?」

「僕は、ママ一筋さ」

ママは笑いながら、冷たいおしぼりを出してくれた。
ママは奈津子のことには、ふれなかった。
僕らのことは知っているはずだから、気を遣っているのだ。

「順ちゃんの顔が見られなくて、寂しかったわ」

「景気はどう?繁盛してる?」

「見てのとおりよ。いつになったら景気が上向くのかしらね」

「ママ、山あり谷ありだよ」

「そうね、人生と同じなのね」

店を見回した。奈津子は居なかった。
少し残念だったが、奈津子の親友の中津玲子が居た。
以前、何度か会ったことがある。

奈津子とは中学生の時からずっと一緒で、
社会人になってからも、同じ職場に勤めていると聞いていた。

あれは、奈津子と最初のデートの約束をした時のことだった。
当日になって現れたのは玲子だった。

「奈津子は仕事で来られないから、私が代役で来たの」と玲子は云った。

その時に、二人で食事をしたことがあった。
今考えると、僕は彼女に値踏みされていたのかもしれない。

「森下さん、お久しぶりです」

「玲子さん、元気だった?」

「私は元気ですよ」

ママに促されて、彼女は僕の隣に腰掛けた。

「この店で会うのは何度目かな?」

「たぶん、七度目ですよ」

「よく覚えてるね。僕は1年ぶりかな」

僕は水割りのダブルを頼んだ。あれから一年。
奈津子の弟も四才になったのだ。可愛い弟か……。
別れる前に、会っていれば良かったと少し後悔した。

荒んだ時期もあったが、今は仕事も順調で面白くなっていた。
奈津子と暮らした日々も、今では冷静に振り返る余裕もあった。

出された水割りを一気に半分ほど飲んだ時、
隣の玲子が云った。

「あの……」

「なに?」

「奈津子のことなんだけど」

「奈っちゃんが、どうかしたの?」

奈津子の名前を聞いて、少し動揺したが、
平静を装って、僕は聞き返した。

「気になりませんか?」

「もう、済んだことだから」

僕は煙草を咥えて火をつけ、
動揺を悟られないように、大きく煙りを吐いた。

「別れた本当の理由を知りたくないんですか?」

「……今さら、聞かされても」

「シマちゃんと奈津子は、あなたが想像しているような関係では……」

「どういうこと?」

僕は吸いかけの煙草を灰皿に置いたのも忘れて、
新たに一本抜き取り、火をつけた。

「あれは、事情があって……、あなたを遠ざける為に打った芝居だったんです」

「事情?芝居?僕をはめたのか?」

一瞬、耳を疑い、それでも僕は平静を装いながら、
最後の夜のことを思い出していた。
悲しい顔をした奈津子の、あの顔を。

僕が首を絞めるフリをしたとき、
抵抗することもなく静かに目を閉じたあの顔を……。

「怒るのも無理ないですよね」

「白々しく、ジタンの吸い殻まで用意して、芝居など……」

「ジタンの吸い殻? なんのことです?」

玲子は話が理解出来ない様子だった。
今となってはどちらでも構わないことだった。

「ごめんなさい」

「君が謝る必要はない。神経を逆撫でするような話なら、僕はごめんだ」

「このままだと、奈津子があまりにも可哀相で」

「僕は!……」

と声を荒げた後、気持ちを抑えて続けた。

「僕は、可哀相じゃないのか?」

「奈津子のプライバシーを明かすのは気が引けるけど……」

「じゃあ、話さなくてもかまわない」

「待って。話しますから」

「……」

「奈津子のお腹に手術の痕があったでしょ?」

「ああ、胃潰瘍だか、十二指腸だかの手術痕だと聞いたけど?」

「あれは、帝王切開の痕なんです」

「え?」

「年の離れた弟は、奈津子の子供で……」

「亡くなった……彼の?」

「ええ。戸籍上は弟になってるんですけど」

「そんなのは、理由にならない」

たとえそうであったとしても、
僕は自分の子供として育てただろう。

奈津子の子供は僕の子供でもあるのだから。
僕が、迷うはずがなかった。

「あなたなら、きっと理解してくれると奈津子も云ってました」

「当然だ」

「森下さん、子供が好きなんでしょ?」

「ああ、いつか奈津子は僕に云ったよ。子供を作ろうって」

「奈津子、別れる前に病院で診て貰ったんです。確か、お正月明けだったかな、私も付き添ったんです」

「それで?」

「子供は無理だって……。奈津子、声も掛けられないほど落ち込んでしまって」

「……」

何も知らないで、子供の話をしていた脳天気な自分が無神経で情けなく思えた。
その時の奈津子の気持ちを想うと、胸が張り裂けそうになった。

「でも理由は、それだけじゃないんです」

「まだ……あるの?」

「奈津子の父親のことなんですけど」

「まだ、帰ってないの?」

「それが……、ある事件の重要参考人として警察が捜してるとか」

「指名手配じゃないわけだな?」

「ええ。森下さんは司法試験を目指してるんでしょ?」

「あの時は、そうだった……」

「まずいでしょ? 裁判官になるのに、身内にそんな人が居ては」

「……」

「奈津子が云ってました。順一さんなら、きっと立派な裁判官になれるって」

「試験に合格したわけでもないのに、……それに、
奈津子の父親が犯罪者と決まったわけじゃないだろ!」

思わず、声が大きくなってしまった。
カップルの客が驚いて、こちらを見た。

ママは聞こえぬふりをして、グラスを磨いていた。
ママは全て知っているはずだった。
奈津子が一番信頼している人だからだ。

「たぶん、奈津子は父親がそうなると確信したんでしょう」

「根拠でもあるのか?」

「シリウス工業という会社を知ってますか?」

「シリウス? ……知ってるけど。それが?」

「奈津子は、五年前の事件と関係があるとか云ってました」

五年前はまだ学生だったが、確かにシリウスが関係した事件があった。
政界を巻き込むスキャンダルに発展しそうだったが、
いつのまにか、うやむやになったと記憶している。

「奈津子から聞いたのか?」

「ええ。あなたと別れる直前に父親からの手紙が届いたらしくて……」

「それで?」

「自分は追われてるから、身を隠すという内容だったそうです」

「警察に追われてると?」

「詳しいことは、私にも分かりません」

「あの五年前の事件は、まだ終わっていないというのか?」

「奈津子の父親が、事件の深い部分に関わっているのは事実みたいです」

どういう事なのだ。五年前の事件と奈津子の父親。
そして僕の勤めるソラリス電機と密接な関係のシリウス工業。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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