翌朝、目覚めるとベッドに奈津子の姿はなかった。 仕事に出かけたのだろう。
今日、ここに帰って来るのだろうか。 ……たぶん帰ってくるだろう。 奈津子なら、僕のとる行動は想定しているだろうから。
僕は銀行に向かい、今月分のお金を下ろした。 そして、最少限必要な衣類をボストンバッグに詰めた。
3月末の日曜日に、残りの荷物を取りに来る旨を書き置きした。 銀行で下ろしたお金は、何故だか冷蔵庫の中に置いた。
ドアの鍵を閉め、部屋の鍵は封筒に入れて一階のポストに置いた。 それから駅前のビジネスホテルに部屋を取った。
今度は独りで部屋探しだ。何故こんなことに……。 僕の独りよがりだったのだろうか。
奈津子との平凡な生活を望んだだけなのに。 平凡な生活ほど、実は築くのが難しいのかもしれない。
3月末の日曜日。僕は残りの荷物を引き取りに出かけた。 前日に「明日行く」とだけ留守電に入れておいた。
ドアを開けると、男物の靴があった。 部屋には上がらず、僕は荷物を受け取った。
奥から僕の名を呼ぶ男の声がした。 シマちゃんだった。
奈津子は僕の正面に立っていた。 普段と変わらぬ、僕の好きな薄化粧だった。 まるで何事も無かったかのように。
そのまま振り返ってドアを開けようとした時、 下駄箱のサボテンが目に映った。
月宮殿がポツンと小さな赤い花を付けていた。 こんな状況でなければ、二人して祝杯を挙げていたことだろう。
僕は黙ってそれを見ていた。 奈津子もそれを見ていた。
それから、僕は「うん」とだけ云って部屋を出た。 ドアを閉める時、その隙間から目を閉じる奈津子の顔が見えた。
玄関の表札から、僕の名前が消えていた。 プラスからゼロに戻ったのだ。 急に荷物も体も重く感じられた。
奈津子と別れて間もなく始まったTVドラマがあった。 主題歌は『サボテンの花』だった。
優しいメロディーだったけど、切ない歌だった。 それは、小さな声で奈津子が口ずさんでいた、あの歌だった……。
まるで今の状況を、あのサボテンが最初から暗示していたような気がした。 苦笑する余裕など、僕にあるはずもなかった。
奈津子と別れてから、僕の生活は荒んだ。 仕事は順調だったが、精神はズタズタだった。 女性に対する不信感ばかりが募っていった。
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