二月も半ばになっていた。 このままでは引っ越し先も見つからないまま春を迎えそうな雰囲気だった。
仕事に疲れ切って部屋に帰り、着替えもそこそこに煙草に火をつけた。 最近では仕事が忙しいこともあり、ますます二人で過ごす時間が少なくなっていた。
ネクタイを緩めて、煙草の灰を灰皿に落とした時、 そこには、数本の吸い殻が残されていた。 奈津子は煙草を吸わない。
それは普段あまり見かけない銘柄。 フランス煙草のジタンだった。 僕はその吸い殻の主に心当たりがあった。
奈津子は意識してそれを片付けなかったのか。 それとも、やましい気持ちが無いからそのままだったのか。 その夜遅く帰宅した奈津子だが、来客のことには一切ふれなかった。
疑心暗鬼になる自分を情けなく思いながらも、 奈津子には何も聞かなかった。 ……いや、聞けなかったのだ。
奈津子にそれを確かめるのが怖かった。 僕は、ますます臆病になっていた。
臆病も、過ぎると卑怯となる。 既にそうなのかもしれなかった。
やがて、引っ越し先も決まらないまま3月を迎えた。 年度末でもあり、お互いに忙しくなっていた。
仕事にかまけて、目の前の現実から目を逸らしていた。 実際は、言い訳に過ぎないのだが……。 それは奈津子も同じなのかもしれなかった。
三月になって最初の金曜日の晩。 僕は仕事帰りに同僚と軽く一杯やって帰宅した。
深夜になって、タクシーの止まる音が聞こえた。
「ただいま」
「おつかれさん」
いつもと変わらぬ奈津子だった。 ただ、最近は化粧が一目で分かるほど派手になっていた。
僕は濃い化粧を嫌っていた。 薄化粧でも十分綺麗な顔だちなので、 化粧は薄いほうがいいと僕が云えば、奈津子は喜んだ。
「接待続きで、ごめんね」
「それも仕事のうちだからな」
「今日は、ちょっと飲んじゃった」
「あまり無理はするなよ」
接待の際には、先方から奈津子を指名してくることが多いのだと云っていた。 「まるでコンパニオン扱いだわ」と溜息を吐くこともあった。 しかし今日の奈津子は、アルコールの匂いが殆どしなかった。
「お腹は空いてないか?」
「ちょっと小腹が空いた感じだけどね」
「久々に、……ちょっと出かけるか?」
「ううん、今日は止めとくわ」
少し考えてから、奈津子は云った。 その様子を見て、酔っていないと分かった。
奈津子、何故、君は酔ったフリをするのだ。 それを知りながら、知らぬふりをする僕は……。
「じゃあ、何か飲むか?」
「コーラがいい」
「うん」
僕は冷蔵庫から缶コーラを2本取り出して、そのひとつを渡した。 キッチンのテーブルに向かい合って座り、僕らは黙ってコーラを飲んだ。
長い沈黙の後、奈津子が口を開いた。
「一人よりも、二人で居る寂しさのほうが辛いと、誰かが云ってたっけ」
「それは……僕らのことかな?」
「違うわ。順一さんと居て、寂しいと感じたことなどないもの」
「じゃあ、何故そんなことを?」
「気にしないで、何でもないの。今日は少し疲れちゃった」
「……」
「先にシャワーを浴びるわ。土曜日だけど、明日も仕事なの」
「そうか……」
奈津子がシャワーを終えて部屋に戻った後、 僕も続いてシャワーを浴びた。
最近の奈津子は、ますます様子がおかしくなっていた。 急に化粧を濃くしたり、明らかに僕を避けているようだった。 僕はシャワーを浴びながら、なんとなく嫌な予感がした。
部屋に戻ると奈津子は、ベッドに寝そべっていた。 いつもの素顔の奈津子に戻っていた。 部屋の灯りを小さくして、僕もベッドで横になった。
「こうして二人で話すの、久々だな」
「そうね、最近忙しかったから」
「はやく部屋を決めないとな」
「そうね」
気のない返事だった。 僕は居心地の悪さを感じた。 これが、奈津子が云った「二人でいる寂しさ」なのかもしれない。
「明日も仕事か」
「年度末だから、仕方がないわ」
「仕事が落ち着いたら、旅行でもするか?」
「旅行か……。去年の秋はよく行ったわね……」
「何処がいい?」
「順一さんに任せるわ」
「わかった」
「行けるといいわね……」
「行けるさ」
「どんな事があっても?」
「え?」
「……」
「……」
その夜、嫌な予感は現実となった。 ベッドで奈津子は、僕に向かって違う男の名前を呼んだ。
奈津子は、一瞬、悲しそうな顔をした。 僕は、怒りでも苛立ちでもない、ただ、切なくて悲しい、 それは今まで味わったことのない奇妙な感情だった。
僕は奈津子の首すじに両手を当て、首を絞める振りをした。 奈津子は抵抗することなく、静かに目を閉じた。
涙がポロポロと奈津子の胸の谷間にこぼれた。 部屋の薄明かりの中で、それはキラキラと光っていた。
奈津子のお腹にあった手術痕が痛々しく映った。 痛々しく感じたぶんだけ、それがいっそう愛しかった。
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