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稲波〜プロローグ 作者:kig

第5回   一九九三年一月
正月も終わり、普段の生活のリズムが戻った頃だった。
僕は仕事を終えて帰り、いつものようにトイレに入った。
奈津子はまだ帰宅していなかった。

トイレで用を足した後、妙に引っかかるものがあった。
何だか、いつもと違う感じがした。違和感がトイレにはあった。

洋式のそれは、便座とその上にフタがあるのだけど、
それが両方とも開いていて、立て掛けられたままだった。

用が済んだら必ずフタを閉じるよう、
暮らし始めた頃、奈津子からうるさく云われていた。

掃除でもして、閉じ忘れたのかと思ったが、
それは几帳面な奈津子らしくないことだった。

その日以降、同じようなことが度々あった。
あえて奈津子に訊ねることはせず、僕は疑心暗鬼になっていた。

僕以外の男が、出入りしていると感じた。
女と違って、男は小用の際には便座とフタを開けるからだ。


一月は行く、二月は逃げる。月が変わり、逃げる二月になっても、
引っ越し先の条件に合う物件はなかなか出回らなかった。
物件までが、逃げているようだった。

駅から徒歩五分以内で、駐車場付。
駅から五分は厳しいかもしれなかった。

思い切って家賃を上げるか、
駅から離れるしかないようだった。

「けっこう有るようで、無いもんだな」

「現実は厳しいわね」

「子供が出来たらまた引っ越すかもしれないから、この際適当な処で手を打つかな」

「そうね……」

「やっぱり、子供部屋も必要かなあ」

「ええ……」

「どうした?最近、あまり元気が無いようだけど」

「そんなことはないわ。私は、いつだって元気だから」

「ならいいんだけど。体の具合でも悪いのかと思った」

「心配しないで」

「ひよっとして、お父さんのことか?」

「なんでもないから……」

奈津子の父親からは月一の割合で実家に連絡があるのだという。
だが、実際に家に帰って来たことはなかった。

一年近くも留守にしているのだから、
奈津子が心配するのも無理はない。

奈津子は何を考えているのだろうか。
僕の留守中に訪ねてくる男のことだろうか?
何を聞いてもハッキリとした応えが無かった。

話をしていても、奈津子は上の空なことが多くなった。
なにより、最近の奈津子はあまり笑わなくなっていた。
二人の間に隙間が出来たようで、僕は不安だった。

その不安を取り除くひと言が云い出せなかった。
僕は臆病に慣れ始めていた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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