■ トップページ  ■ 目次  ■ 一覧 

稲波〜プロローグ 作者:kig

第3回   告白
八月も末になり、一時の猛暑も峠を越えたが、
相変わらず雨もなく、晴天が続いていた。

奈津子に頼まれてクリーニングを取りに行った帰り道、
歩道を猛スピードで向かってくる自転車があった。

小学生と思われる男の子が大声で何かを叫んでいた。
僕の目の前を通り過ぎた時、その叫びが聞き取れた。
「夏休みのバカヤロー!」だった。

今日は夏休み最後の日曜日だった。
明日でその休みも終わりなのだと気づいた。

僕は苦笑しながら、子供は可愛いと思った。
子供が欲しい……。奈津子はなんと云うだろうか……。

部屋に戻ると奈津子はアイロン台を横にして、洗濯物を畳んでいた。
奈津子は僕に気づかないようだった。

アイロンをあてたばかりのハンカチを、ひとつひとつ畳んでは重ねていた。
その仕草は、まるでガラス細工を扱うようだった。

ハンカチの端を丁寧に揃えながら、
奈津子は、消え入るような小さな声で歌っていた。
ところどころ音程が外れた。

奈津子は歌が得意ではなかったので、
人前で歌うのを拒んだ。

かすかに聞こえるその歌は、
ずっと昔に流行った『サボテンの花』だった。

奈津子しかいない部屋なのに、声をひそめ、
誰にも聞かれないように歌う姿に僕は声が掛けられなかった。

僕は気づかれないように、
暫くのあいだ奈津子の、か細い歌声に耳を澄ました……。

「ただいま!」

奈津子は肩をぴくりと動かしたあと振り向いて、照れくさそうに笑った。

「いつから、居たの?」

「ずっと、前から」

奈津子はふたたび背を向けて、
タンスの引き出しに畳んだ洗濯物を納めながら云った。

「ひょっとして……、今の、聴いてた?」

「いい歌だよな。ちょっと懐かしかった」

「うん」

奈津子はタンスの引き出しに手をいれたまま、
その奥の一点を見つめた。

「なんだ? ヘソクリでも見つけたのか?」

「…………」

不審に思って奈津子の傍に行き、肩に手を置いて聞いた。

「どうした?」

「これ……」

そう云って額に入った写真を取り出した。
若い男が笑顔でVサインをしていた。
年齢は僕らよりも少し上に見えた。

「これは?」

「三年前、病気で死んだの」

申し訳なさそうに奈津子は云った。

「そうか……」

付き合っていたのだろう。
そのくらいの想像はついた。

「好きだったんだな?」

「ええ」

「忘れられないんだ」

「ごめんなさい」

奈津子はうつむき、両手で顔を覆った。
僕は折りたたんだ洗濯物からハンカチをとって、奈津子に渡した。

「いいじゃないか」

「あなたには、もっと早く……」

「今、話してくれた」

「それでいいの?」

「たった三年で忘れられたら、彼も浮かばれない」

「嫌じゃない?」

「独占出来るとは思ってない」

「…………」

「時間が解決してくれるさ」

しわくちゃになったハンカチを広げながら、
「これ、また洗濯しなくちゃ」と云って奈津子は笑った。
睫毛にはまだ涙の粒が残っていた。

想い出は、時の経過と共にひとつの結晶となり、
それは宝石のように美しさを増してゆく。
いつまでも、その輝きを失なうことは無いのだろう。

亡くなった人に敵うはずもないが、
今まで以上に奈津子を愛しく感じた。

「夕飯の支度をするわね」

「それもいいけど、外に出ないか?」

「いいけど……」

「そろそろ夏も終わりだし」

「……わかった。アソコね?」

「そう。アソコだよ」

昼間はまだ暑さが残っていたが、
夕暮れどきには、少しずつ秋の気配を漂わせ、
いくぶん、凌ぎやすくなっていた。

駅まで続く通りの両側には、八百屋や雑貨屋などが賑やかに連なっていた。
僕らは店先に並ぶ品を、いちいちひやかしながら目的地のアソコまで散歩した。

駅前のデパートに着くと、まっすぐ屋上に上った。
汗をかく季節になってからは、少なくとも週に一度は来ていた。

「やっぱり、屋外で飲む生ビールは最高だな」

「ビアガーデンは、夏の風物詩ね」

「ここも、もうじき終わるんだなあ」

「それにしても、よく通ったわねえ」

奈津子は、焼き鳥の串を僕に向けて上下に揺らしながら笑った。

「うん。よく飲んだな」

周りを見渡すと、仕事帰りのサラリーマンが目立った。
しみじみとジョッキを傾ける男性客もいれば、
女性ばかりの賑やかなテーブルもあった。どこでも女性は元気だ。

「ごめんね」

突然、しんみりとした口調で奈津子が云った。
亡くなった彼の写真のこともあり、
少し酔いも手伝って感傷に浸っているのかもしれない。

「なにが?」

「すれ違いばかりで」

「こうして、一緒に居るじゃないか」

「食事も満足に用意してあげられなくて」

「お互い仕事がある身だ。今のままで十分」

「そう云ってくれると……」

「奈っちゃんの料理上手は、僕が良く知ってる」

気がつくと辺りは暗くなっていて、かすかに星が見えた。
スモッグで覆われていなければ、満天に広がっているのかもしれない。

「五ヶ月が過ぎたのね」

「早いなぁ、月日の流れは」

ジョッキを置き、ハンカチで口を拭って
奈津子が真面目な顔で僕を見た。

「順一さん……」

「なんだ?」

「子供をつくりましょう」

「え!?」

「私達の子供を」

「……」

突然の言葉に、僕は戸惑った。
まだ結婚の話さえしたことがなかった。

「駄目?」

「本気なのか?」

「ええ」

「先にプロポーズされてしまった」

僕は苦笑して云ったが、奈津子は笑わなかった。

「僕で、いいのか?」

「あなたこそ、私でいいの?」

「僕は……とても嬉しい」

「信じていいの?」

「いいとも。さっそく今晩から子作りに励もう」

「ばか……」

ビールのせいなのか、照れのせいなのか、
奈津子は紅潮した顔をジョッキで覆い隠した。

「子供となると、今の部屋じゃ手狭だな」

「じゃあ、いつか部屋を借りましょう」

「どうも僕は、引っ越しばかりしている気がするなあ……」

「それでいいの。そうやって家族が増えていくのよ」

「今の言葉、ちょっと、心に響いた。子作り記念にもう一杯頼もう」

「駄目よ。今晩から頑張るんでしょ?」

「う〜ん、ひと言、余計だったかな」

ジョッキに目を落として、奈津子は口元で笑った。

← 前の回  次の回 → ■ 目次

Novel Editor by BS CGI Rental
Novel Collections