梅雨になって雨の日が続いても、僕らには関係なかった。 晴れの日には晴れを、雨の日には雨を楽しんだ。
六月のその日も雨だった。 珍しく二人とも、夜の八時には帰宅していた。 この時間に顔を合わせることは珍しかった。
僕らはせっかくの雨を無駄にしないよう、 傘を手に、国道沿いの屋台に出かけた。 ラーメンの味はイマイチだったが、おでんは評判だった。
屋台の周囲には、雨よけ用の透明ビニール・シートが下げられていた。 ハチマキをしたオヤジさんを囲むように、四人掛けの長椅子が二つ置かれていた。 店の片隅で、銭湯帰りの男性客がビールを手酌で飲んでいた。
僕らは、おでんを適当に見つくろって貰い、熱燗を頼んだ。 雨の日の屋台では熱燗と決めていた。たとえ季節が夏であっても。
透明ビニール・シートに垂れる雨は風情があって、 お酒の味も格別に感じられた。
奈津子がトックリを傾けて、 僕のお猪口に酒を注ぎながら聞いた。
「仕事は、どう?」
「段取り通りには、進まなくてね」
「私も」
手酌しようとしたトックリを取りあげ、 僕は奈津子のお猪口に酒を注いだ。
「とりあえず、おつかれさん」
奈津子がクスクス笑った。
「どうした?」
「二十四才の会話じゃないもの。それもカップルで」
「云われてみれば、そうだな」
僕もつられて笑った。 お互い、黄昏れるには早すぎる。
「ところで、お母さんの体調は?」
「もう平気みたい」
「そりゃ良かった。可愛い弟クンは?」
「元気過ぎて困っちゃう。最近は言葉も達者になっちゃって」
「可愛い盛りだよな」
僕は、おでんの竹輪麩(ちくわぶ)のファンになっていた。 東京に来て初めて出会った味だった。西の地方ではお目にかかれない。
奈津子が好きなのは大根とはんぺん。 いつも、カラシをちょっとだけつける。
以前、「それじゃ、つけなくても同じじゃないか」と云ったら、 「香りが大事なの」と奈津子は応えた。
「こないだ、実家に帰った時、母から聞いたんだけど」
「なにを?」
「父の知り合いと名乗る人から、しつこく電話があるんだって」
「用件は?」
「手帳を預かってるだろうとか、そうでなければ何処かにあるはずだと」
「手帳? 心当たりは?」
「父からは何も聞いてないし」
「お父さんからの連絡は?」
「この一ヶ月無いの。いつものことだけど」
「それで、電話の主は名乗ったのか?」
「いいえ。なんだか気持ちが悪くて」
「電話は、同じ人間から?」
「分からない。母に聞いてみないと」
奈津子は何かを思い出すような顔をして、 お猪口のお酒を少し舐めた。
「そういえば……、何度目かの電話で『シリウス……』と云い掛けたらしいわ」
「シリウス?」
「母の聞き間違いかもしれないけど、云い掛けて止めたらしいの」
『シリウス』といえば、星座のひとつにあった気がする。 それ以外で思い当たるといえば、僕が勤めるソラリス電機へ 電子部品を納めているシリウス工業という会社だけだった。
奈津子は所在なさげに、お猪口をもてあそんでいた。
「お父さんの仕事って……」
「不動産を扱ってるの。あちこち飛び回ってる」
「バブル崩壊後は、しんどいかもな」
「そうみたい」
「子供じゃないんだ。そのうち連絡があるさ」
「そうね」
奈津子には心配するなと云ったが、 シリウスという言葉が妙に引っかかっていた。
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