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稲波〜プロローグ 作者:kig

第1回   一九九二年一月
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始まりに終わりを伴うは必然。

早すぎる終わりは苦悩の種となり、

やがて芽吹いて咲く花は、

苦悩の連鎖を何色に染める……。
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『BAR バク』は十人も座れば満員になる、カウンター席だけの店だ。
二十代後半とおぼしきママが、アルバイト二人と共に切り盛りしていた。

半年前から、この街に住み始めて以来、週に一度は立ち寄る飲み屋だった。
カラオケは置かず、流れるのは会話の邪魔にならないレベルのBGM。

いつも閉店まで居座る僕は、新譜のCDを持ち込んでは、
看板を消した後、ママと二人でそれを聴いていた。

二人とも、音楽の趣味が一致していた。
僕の持ち込むCDを聴いては、ママは僕の精神状態を察し、
そのつど水割りの濃さを加減してくれた。
週に一度の、駆け込み寺的存在だった。

「今さらだけど、バクって、夢を喰う奴だよね?」

「そうよ、順ちゃん」

「客に夢を売る商売なのに、夢を喰っていいの?」

「夢にもイロイロあるでしょ?」

「イロイロねえ……」

「お客様の幸せを願って、悪い夢は私が食べちゃうのよ」

「なるほど……でも、お腹を壊したりしない?」

「大丈夫よ。正露丸を飲んでるから」

いつもの調子で、ママと挨拶代わりの話をしてると、
隅の席でクスクス笑う客がいた。

「ママなら心配いらないわ。毒でも薬にしちゃう人だから」

「まぁ、奈っちゃんたら。ずいぶんね」

「だって、そのとおりだもの」

「そういえば……、順ちゃんとは初めてね」

「佐藤奈津子です。よろしくね、順ちゃん」

「……どうも。森下です」

馴れ馴れしい女だと思った。

だが、一目で僕は彼女に惹かれた。
淡いピンクの唇と表情豊かに動く眼。
僕の視線は、それに釘付けになった。

奈津子は店の常連らしく、ママとは公私ともに親しいようだった。
週に一度は店に顔を出していたのだが、奈津子と居合わせることはなかった。

奈津子は僕と同い年の二十四才で、
並んで歩けば僕と目線が同じ位置にあった。

長い睫毛が印象的で、肩まで垂らした黒髪は柔らかくウェーブし、
風が吹くと羽毛のように広がった。

出会ってから三ヶ月後、僕らは一緒に暮らし始めた。

奈津子は車を持っていた。駐車場のこともあり、
結局、僕が部屋を引き払って彼女の部屋に引っ越すことになった。

引っ越しといっても、大した荷物があるわけではない。
衣類以外は殆ど処分した。僕にとっては上京して三度目の引っ越しだった。

引っ越しの度に荷物が増えて困ると聞くが、
僕の場合、それは当てはまらないようだった。

玄関とポストの表札は、『佐藤奈津子+森下順一』。
オマケのようであまり気に要らなかったが、世帯主には逆らえない。

それにしても奈津子よ、表札にプラスは無いだろう……。
「家族が増えたみたいで私は愉快」奈津子は云った。
マイナスよりはマシかと自分を納得させた。

部屋は1LDKだったが、狭くは感じなかった。
必要な経費は全て均等にして出し合った。

彼女は、地元のタウン誌で営業をしていた。
僕は事務機器メーカーの宣伝部に勤めていた。

仕事柄、二人とも接待で帰りが遅くなることが多かった。

お互いに忙しくて二人の時間を捻出するのは大変だったけど、
それでも夜な夜な近所の寿司屋やおでん屋に、二人して出かけた。

僕は毎朝7時の電車に乗り、奈津子は比較的自由な時間に出勤した。
仕事ですれ違うことも多かったが、充実した日々だった。

暮らし始めてまもなく、奈津子は暫く実家に帰った。
彼女の生まれ育った場所は車で三十分のところにあった。

「母が入院したの。ゴメンね。せっかく楽しみにしていた連休なのに……」

「旅行はいつだって出来るさ」

「なるべく早く戻るから」

「気にするな」

ゴールデンウィークを利用して、車で北海道に行く予定だった。
前の週の休日にレンタルした『キタキツネ物語』のビデオを観て、
その愛らしさにに惹かれ、二人ともその気になっていた。

しかし、一人で過ごすには長い七連休だった。
それでも、キタキツネは無理だが、府中の東京競馬場で馬を見て暇をつぶした。
無欲だったせいか、適当に買った馬券は好調で、二日間で一ヶ月分の給料を手にした。

奈津子の驚く顔を想像すると、帰りが待ち遠しかった。
そして、連休の最後の日の夜遅く奈津子は帰って来た。

「お母さんの具合は、どう?」

「過労だって。夕方に退院したの。心配かけてごめん」

予想に反して、奈津子は疲れた表情も見せず、
むしろ、実家に帰る前よりも元気になったように見えた。

「それはよかったな。もう傍にいなくて大丈夫なのか?」

「母よりも、弟がね……」

「弟?」

「年の離れた弟がいるのよ」

「いくつ?」

「もうじき、三才」

「三才!?」

「驚いた?」

「お母さんは……」

「四十四才よ」

「え? そりゃ若いな」

「美人なんだろうな?」

「鼻の下が伸びてるわよ」

そう云って僕の鼻を、おもいきりつねった。
奈津子は怖い顔をしていた。

「痛てっ……」

「だから、弟の面倒は私が……」

「お父さんは?」

「今は仕事で家にいないの。」

「そうか。僕のことは気にしないでいいから」

「うん。ありがとう。……ごめんね、痛かった?」

奈津子は、つねって赤くなった僕の鼻を撫でた。

「三才か……可愛いんだろうな」

「ええ、とっても可愛いの」

弟のことでも思い出したのか、
奈津子は口元をゆるめて優しく微笑んだ。
イエスを抱いたマリア像が頭に浮かんだ。

「子供って、可愛いよな。身内なら尚更だ」

「順一さんは、子供が好きなのね?」

「大好きさ」

「私も、大好き」

それから奈津子は、週に一度のペースで実家に帰った。
実家に帰る前日は弟に会えると嬉しそうだった。
そんな奈津子を見るのが、好きだった。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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