■ トップページ  ■ 目次  ■ 一覧 

稲波〜第一部 作者:kig

第9回   刺(トゲ)
奈津子が荼毘に付されて、ひと月が過ぎた。
順一は、葬儀に参列しなかった。

順一には、祭壇に飾られる奈津子の写真を見るのが耐えられなかった。
香典はママと玲子に託した。二人とも順一の気持ちを察してくれた。
毎月の二日、奈津子の月命日には、お店で三人が会うことにした。

奈津子と別れてからの一年半の空白が、ある意味幸いしたのか、
順一は、普段と変わらぬ仕事の日々に戻っていた。
脇田夫妻の心遣いにも、順一は力づけられた。

今日は、奈津子と出会った店に連れて行けとせがむ脇田におれて、
順一は、不本意ながら二人で『BAR バク』に顔を出した。

「いらっしゃいませ」

カウンターの内側に玲子がいた。

「どうしたの? 今日はお手伝い?」

順一がアレ?という顔をして突っ立ったままでいると、
ママが嬉しそうに云った。

「アルバイトの恵子ちゃんがね、やめちゃったから、週末だけ手伝って貰うことになったのよ」

「恵子ちゃん、やめたの?」

「田舎に帰って結婚するんですって。というわけで、今後とも、ごひいきにお願いします」

玲子がおどけた調子で頭を下げた。
ママは、落ち着かない様子で店内を見回す脇田に席を勧めた。

「順ちゃん、こちらは?」

「大学の先輩で、脇田さんです。会社も僕と同じなんです」

「初めまして、ようこそいらっしゃいました。狭い処ですが、ごゆっくりなさって下さいね」

「いいお店ですね。森下、お前が俺を連れて来たがらなかったわけだ」

脇田は順一を横目で睨んで笑った。

「先輩、それは、どういう意味ですか?」

「美人揃いじゃないか」

ショートヘアーの玲子は、色白で小柄なせいか、年齢よりも幼く見えた。
大きな目と、笑うと出来るエクボが愛らしい。困ったときに薄い唇を噛むクセも、
男心をくすぐるのかもしれない。

絵里子は背格好が奈津子と雰囲気が似ていた。
背中まで伸ばした黒髪は一つに編み込み、リボンで結んで肩から前に垂らしていた。
切れ長の目と口元にある小さなホクロが魅力的な和風美人だった。

「そうですか?」

順一の返事を聞いて、ママは玲子と顔を見合わせてから云った。

「今日は、順ちゃんのおごりね」

「そいつはいい。今日はお前がおごれ」

脇田は順一の肩を叩いた。

「脇田と申します。よろしく」

脇田は、ママと玲子に名詞を渡した。

「玲子ちゃん、ソラリスの課長さんですって。お若いのにねえ」

それを聞いて順一が茶々を入れた。

「若作りしてますが、先輩も子持ちの三十六ですから。それでも、
学生時代はラグビーをやってたから、身体だけは丈夫みたいです」

「余計なことは云わんでいい。お前もこれを取っておけ」

「僕が先輩の名刺を貰ってもねえ……」

順一は仕方なく、名詞を眺めた。

「先輩、携帯電話の番号が入ってますね。いつ買ったんですか?」

「ああ、それか。こないだ会社から支給されたんだ」

「僕は貰ってませんが?」

「お前も早く管理職になれ」

「それが云いたくて、僕に名詞を?」

順一は、やれやれと溜息をついた。

「そうじゃない。何かあったら、いつでも電話しろ。お前が心配なんだ」

脇田はしんみりと云った。

「順ちゃんは、素敵な先輩がいて幸せね」

「そうですよ、森下さんは幸せ者ですよ」

玲子が脇田に微笑んだ。
脇田は、それに少し照れて笑った。

「そうだぞ、お前は先輩に恵まれたなあ。俺はお前が羨ましいぞ」

「でも、携帯は電話料金が高いからなあ。コレクトコールは出来るんですか?」

「まったく、お前という奴は……とにかく、その名詞は大事にしろよ」

ハイハイと順一は財布に名詞を収めた。
その様子を見て脇田は豪快に笑った。
玲子もつられて笑いながら、順一の前に移動した。

「森下さん。来月の月命日だけど、三人で奈津子のお墓参りに行きません?」

「何曜日かな?」

「金曜日だけど、やっぱり無理ですか?」

暫くの間、順一はシステム手帳を捲ってスケジュールを確認し、
玲子は灰皿を交換して、水割りを作った。

「なんとかなりそうだよ。休暇を取っての三連休も悪くないかな」

「良かった!」

玲子はそれを聞いて安心したのか、
脇田の相手をしていたママと目を合わせて頷いた。

「お墓は、長野だっけ……」

「ええ。冬になると雪景色がとても綺麗なんですって」

奈津子を思い出したのか、玲子はうつむいた。

「楽しみだね、玲子さん」

努めて明るく、元気づけるように順一は云った。
玲子は口を真一文字にして涙を堪え、ウンとうなづいてから笑った。

三人とも、普段は奈津子の話を出来るだけ避けていた。
いつか、想い出話として語り合える日が来るまでは……。

「おい、森下。知ってたか? 絵里子ちゃんの家は俺の近くなんだってさ」

「絵里子ちゃん? 先輩……誰のことです?」

脇田は、一瞬、驚いた顔をしてから、呆れたようにママと玲子を見た。

「ママだよママ。お前、今まで知らなかったのか?」

「はい」

(そういえば、ママの名前、聞いたことなかったな……)

知り合ってから三年も経って、順一はママの名前を知った。
ママは、ポカンとした順一の呆け顔を見て笑った。

「東田絵里子です。初めまして、森下順一さん」

「どうも……」

「どうも……だって? あきれた奴だな、お前は。わっはっは」

店には笑い声が絶えなかった。
順一も、絵里子も玲子も、笑っていないと不安で仕方がなかった。

奈津子を失った悲しみから逃れるように、みんな笑っていた。
それを察した脇田も、奈津子のことには触れなかった。

時間の経過と共に、奈津子との想い出は、
どこまでも美しく、それぞれの心の中で育まれていく。

順一は、奈津子と初めて会った時のことを思い出しながら、
店の中を見渡した。

「ママ、あのサボテンは?」

順一はカウンターの隅に置かれた、灰色の鉢植えに目をやった。

「玲子ちゃんが持って来てくれたの」

(あの月宮殿は、どうなったのだろう。まだ、奈津子の家にあるのだろうか)

「へぇー、そうなんだ。サボテンに比べて鉢が大きすぎない?」

「大は小を兼ねるですよ。森下さん」

奈津子から預かった時には、玲子もそう感じたが、
鉢の大きさなどは、どうでもよかった。

玲子にとってこのサボテンは、奈津子そのものだった。
ただ、多少の罪悪感もあって、順一にも観て貰える場所に置いた。

「サボテンはね、出来るだけお日様に浴びさせてあげないと駄目なんですよ」

(玲子が云うように、奈っちゃんも、まめに日光浴させてたっけ……)

「玲子さん、詳しいんだね」

「花を咲かせようと、本を買って調べたんですよ。来年の春が楽しみ!」

玲子はそのサボテンが奈津子のものだと、
順一に気取られないように、ちょっとはしゃいだ。

順一は、そのサボテンの種類が月宮殿かもしれないと思ったが、
奈津子のことに話が及ばないように、それ以上は訊かなかった。

無理をして明るく振る舞う順一を見るたびに、
ママの絵里子には、それが切なかった。

触れば傷つくと知ってはいても、
触らずにいられないサボテンのトゲ。

(トゲに触って血を流すことがありませんように……)と
絵里子は、このまま無事に時が過ぎて行くのを願った。

自ら血にまみれて倒れ込む順一の姿が目に浮かんでは、
それを打ち消そうとする絵里子だった。

← 前の回  次の回 → ■ 目次

Novel Editor by BS CGI Rental
Novel Collections