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稲波〜第一部 作者:kig

第8回   祝杯
「ここは、ミルクも出すのか?」

男の声に、カウンターの倉田政則が振り向いた。

「ここのオーナーは、俺なんだ」

ミルクで濡れた赤い唇が光った。

「多角経営か。結構なことだ」

男は倉田の肩をポンと叩いて隣に腰掛けた。

「水割りを」

バーテンが頷き、ナッツを小皿で置いた。

「ピスタチオだ。アンタの為に、用意させた」

「ウィスキーには欠かせない……特に、祝杯には」

男は倉田の顔を見て、ニヤリとした。

「奥に移る」

倉田はバーテンに云って立ち上がり、奥の席へ移動した。

「ニュースは見たぜ。アンタ、一人でやったのか?」

男はそれに答えず、倉田に聞き返した。

「それで、状況は?」

「付き合いのある刑事(デカ)に探りを入れて貰った。
事件にはならないようだ。事故として処理されそうだ。
司法解剖も無しだ。一安心というところか」

「それは残念だな……」

「残念?」

倉田は少し驚いた顔をした。

「他には?」

「それだけだが……アンタ、どんな手品を使った?」

「正攻法で臨んだだけさ」

男は不敵な笑みを浮かべた。

「家族全員、殺っちまう必要があったのか? 佐藤ひとりで十分じゃ……」

「倉田さんにも、赤い血が流れてるんだなあ」

男はちゃかすように云うと、声を上げて笑った。

「なんだか、嬉しそうだな……。アンタ、怖ぇよ。マジで」

「それより、森下の小僧から目を離すなよ」

「分かってる。任せといてくれ……それで、例のモノは取り返したのか?」

男は急に不機嫌になった。

「とんだ喰わせ者だよ。佐藤って奴は。何が取引だ……。
受け取った封筒の中身を、その場で確認しなかったのはミスだった」

「手帳じゃなかったのか?」

「手帳には違いなかったが、どこかの会社が粗品で配ったモノだった」

「さすがのアンタも、焦っちまったわけだな、まあそれが……」

倉田の言葉を遮るように、男は怒りをあらわにして、拳でテーブルを叩いた。
ドーンと店に響き渡る音に、倉田は、びくついた。その弾みで金縁眼鏡がズレた。



順一の会社から『BAR バク』までは小一時間かかった。
今日は定休日だったが、店のドアを開けるとママと玲子がいた。

「あっ、森下さん。昨日はお店に寄れなくてごめんなさい」

玲子は、ばつの悪そうな顔をした。

「気にしないで、それよりも昨日は大変だったね」

「私も、びっくりして、何が何だか……」

「順ちゃん、いつものでいい?」

順一が頷くと、ママは水割りのダブルを用意しながら云った。

「心中じゃなくて、事故扱いになるそうよ……でも……」

それを受けて玲子が続けた。

「でも、本当は違う気がするの」

「どういうこと?」

「前の日の晩、九時頃だったかな。奈津子に会ったの。
突然、奈津子のお父さんが、お客さんを連れて帰って来て」

「突然って……奈っちゃんのお父さん、今までずっと留守にしてたの?」

「ええ……」

「それで?」

「おじさんが、もっと安定した仕事に就けそうだって……。
奈津子、嬉しそうだった。私もおじさんに会いたかったけど、
お客さんだと聞いて、奈津子とは家の前で話したの」

「その客が仕事を?」

「その人に紹介して貰うのだと云ってた」

「それが……、何か?」

順一は、玲子が何を云いたいのか見当がつかない様子で、いぶかしい顔をした。

「そのことじゃなくて、別れ際にね……奈津子が云ったの。
『私の身にもしもの事があったら……』って」

「もしも?」

順一は、苛立たしく感じながら、次の言葉を待った。

「……順一さんに伝えて欲しいって……」

「何を?」

「順一さんに会えて、幸せだったと……」

玲子は嘘をついた。
奈津子に託されたサボテンのことを隠した。

「もしもの事って……奈っちゃんは、身の危険を察していたと?」

「あの時は縁起でもないと怒ったのだけど、後で、それが気になって……」

「警察に、そのことは?」

「云わなかったの」

「どうして!」

玲子もママも、奈津子の父親が何者かに追われている事は知っていた。
事故ではなく、事件に巻き込まれたと考えて当然だった。
声を荒げた順一に、玲子は涙を浮かべて懇願するような顔をした。

「だって……事件になったら、解剖されちゃうんでしょ?」

「だからって……」

順一は言葉に詰まった。

司法解剖というのは、ちょっと身体を切って調べるのとは訳が違った。
文字通り、身体中を切り刻まれるのだった。

内蔵はそれぞれ体外に摘出され、無造作に積み上げられていく。
頭蓋骨も切り取られ、脳みそを取り出したりするのだ。

最後は、適当に身体にもどして縫合すれば、
それなりに元に戻ったように見える。

幼い子の場合には、脳みそが溶けるように柔らい為に、
元に戻すのが難しく、頭には他の臓器を、
脳みそはお腹に戻したりするのも珍しくない。
そこには人間の尊厳などありはしない。ただの肉の塊なのだ。

順一は、そのことを知っていた。

(玲子の気持ちは良く解る……僕だって、それは)

「ごめんなさい、私には耐えられなかった」

玲子は順一の胸に顔を押し付けて泣いた。
順一は玲子の肩に手をまわし、そのまま黙り込んだ。

(他殺の可能性は否定できない……それは、ニュースを聞いた時から感じていた)

(増岡の云うように、奈津子の父親があの手帳を持っていたとしたら……)

(父親の突然の帰宅。手帳。それは、ある者にとっては破滅に導く爆弾となる。そして、連れの客……)

(実行犯は仕事を世話すると云って、佐藤に近づいた……。それも、憶測に過ぎないか……)

(仮にそうだとしても、口封じの為に幼い子供まで巻き添えにするだろうか……)

玲子の肩を抱いた手に力が入った。
ママは、心配そうに順一を見つめていた。

「順ちゃん……危ないマネはしないでね」

「ママ、心配しないで。僕ひとりじゃ、何も出来ないから」

順一はママの顔を見て、力なく笑った。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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