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稲波〜第一部 作者:kig

第4回   苛立ち
「お父さん、夕飯の支度が出来たわよ……お父さん!」

里子(リコ)が呼んでも、返事はなかった。
(もう……お父さんたら)

里子が少し苛立って居間をのぞくと、
テレビのニュースを食い入るように見る父親がいた。

黒田誠一、四十六才。
ソラリス電機の第一営業部長である。
順一と脇田の上司でもあった。

「どうしたの? 返事もしないで……」

里子は十六才で、高校一年生だった。
家事は彼女がひとりで切り盛りしていた。

母親は里子が幼い頃に病気で他界しており、
黒田家は、父娘の二人暮らしだった。

七時のニュースは、一家四人のガス中毒事故を告げていた。

「男の子は四才だって……。無理心中なの?」

里子の言葉が聞こえないのか、
黒田は真顔でテレビに見入っていた。

「知ってる人?」

「いや……」

黒田はそれだけ云うと、テレビを消した。
初めて見る、父親の表情に里子は後ずさりした。



『BAR バク』の入り口には、臨時休業の張り紙があった。
順一が店に入ると、カウンター席に座っていたママが振り返った。

「順ちゃん……」

ママの目から、堰を切ったように涙がこぼれた。
順一はハンカチを渡した。

「まだ、奈っちゃんかどうか……」

ママは首を横に振った。

「玲子ちゃんから電話があったの……本人だと確認したそうよ」
玲子は、警察で事情聴取を受けていた。

順一は、カウンターに両手をついて、肩を落とした。
(そんな……、奈っちゃん……明日、僕らは会うんだよな……)

ママはハンカチで目を拭いて、鼻をすすった。

「順ちゃん、何か飲む?」

順一は黙ったまま、床を見ていた。

「コーヒーでもいれようか」

ママは豆を挽いて、サイホンに火を入れた後、
少しためらってから、一枚のCDをプレイヤーにセットした。

「あなた達が暮らし始めて半年くらい経った頃……奈っちゃんから預かったの」

流れた歌は『サボテンの花』だった。

「奈っちゃん、歌が苦手だったでしょ。だから、私と二人だけの時に練習してたの」

ママは、その時の奈津子を思い出すように云った。

「奈っちゃんね、ちゃんと歌えるようになったら、順一さんに聞いて貰うんだ……って」

ママは遠くを見るような顔をして微笑んだが、
そのうちに堪えきれなくなって、声を上げて泣いた。

順一は黙って目を閉じていた。
その目に涙はなかった。

二人は黙ったまま、玲子の帰りを待った。

コーヒーの香りが広がり、
時間だけがゆっくりと過ぎていった。



終電に間に合う時間まで待ったが、
玲子は店に顔を出さなかった。
明日また連絡するからと云って、順一は店を出た。

順一が部屋に戻った時、
留守電のランプが忙しく点滅していた。
それは、何度も着信があったことを示していた。

(奈っちゃん?)

順一は、もしやと思いメッセージを再生した。
それは、増岡大輔の声だった。順一は落胆した。

ママから電話番号を聞いた奈津子からだと期待したのだ。
だが、それは虚しい勘違いであり、妄想にすぎなかった。
奈津子に電話が出来るはずがないのだ。

(森下か? 俺だ、出来れば今すぐ会いたい。連絡を待っている)

(……ピーッ、十月二日、午後七時二十分……)

続いて、五分おきに無言のメーッセージがあった。
すべて増岡からだと順一は思った。

(何か、わかったのか?)

順一は、はやる気持ちを抑えながら、住所録をめくり、
増岡のそれを見つけて受話器をあげた。

「増岡! 何か分かったのか!」

順一の尋常でない様子に、増岡は驚いた。

「おい、森下。どうした?」

「あっ、すまん……ちょっとな……」

順一が落ち着くのを待ってから、増岡が云った。

「以前、お前に頼まれた、例の事件だが……これから会えないか?」

「僕は構わない」

「三十分後に、そっちで会おう」

「わかった」

二人は駅前にある二十四時間営業の喫茶店で、
落ち合うことにして電話を切った。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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