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稲波〜第一部 作者:kig

第1回   秘密
雲ひとつない空は何処までも高く、そして透き通るように青かった。
目の前に広がる稲穂は、収穫を待ちわびるように頭を垂れていた。

(玲子も、順一さんに会ったのなら、もっと早く云ってくれたらいいのに……)

奈津子は玲子の話をうらめしく思い返しながら、
助手席に脱いだ白のカーデガンを羽織って、車を降りた。

(会いたい……順一さんに、今すぐ……会いたい、だけど……)

昨日のことだった。玲子は三月に順一と会った日のことをすべて話した。
そして「今ならまだ間に合うから」と、奈津子に順一と会うよう勧めた。

(今さら……どんな顔をして会えというの……)

奈津子は胸に手をあてて、その谷間を指でなぞりながら、
あの夜ベッドでこぼした、順一の涙の感触をたしかめた。

(ごめんなさい……ごめんなさい)

そして、右手で乳房をギュっと、ちから任せに掴んだ。
奈津子は稲穂のように頭を垂れて、顔をゆがめた。
だからといって、順一が受けた心の痛みが分かるはずもなかった。

(会いたい……だけど、私は会えないのよ……)

(死んだ彼との間に出来た子供のことは、なかなか云い出せなかった)

(あなたなら、受け入れてくれると信じてたけど……)

(子供の産めない身体だと知った時は、目の前が真っ暗になった)

(それからは、愚かな細工や芝居までして……なんて惨めなのと思った)

(あなたの悲しそうな眼差しを感じては、胸が張り裂けそうだった)

(それでも、私は本当のことを話そうと決心したのよ。本当よ……)

(あの日、あんなことさえ無かったら……)

(でも……これだけは、誰にも話せないの……)

奈津子は順一と別れる少し前に起きた出来事を思い出していた。
あれは去年の二月も半ば頃だった。



その日も普段どおり、順一は朝七時の電車で会社に向かった。
十時前になって、奈津子も支度を終えて出かけようとした時だった。

靴を履こうとした時、いきなりドアが開いた。
四十がらみの男が、有無を云わせず入って来た。

「ちょっと、お時間を頂けませんか」

「なんですか!いきなり」

「いえ、すぐに済みますから」

男の神経質そうな目が、金縁のメガネを通して、
部屋に戻れと云っていた。

奈津子は男の気に押されて、
キッチンのテーブルに手をついた。

「あなたは誰? 警察を呼びますよ!」

「どうぞ、お好きに。俺はかまわんよ」

男には、動じる気配はなかった。

「オヤジから、手帳を預かってるだろ?」

奈津子は、以前、実家に掛かった不審な電話のことを思いだした。

「なんのことだか……」

「しらを切るのは勝手だが、手荒なマネは避けたい。素直に吐いたほうが身のためだ」

「知らないものは、知りません」

男は「フン」と鼻をならして云った。

「だろうな……。期待はしてなかったよ」

男は奈津子が制するのを無視して、靴を脱いで上がった。

「けっこう、いい部屋じゃないか」

「勝手に入らないで! 大声を出しますよ」

「いいよ。大声でも何でも、どうぞお好きに」

奈津子は外に飛び出そうとしたが、足がすくんで動かなかった。
大声を出そうと思ったが、一年も家に帰らない父親のことが気になった。

「どうするつもり?」

「別に……」

男はそう云うと、スカートからすらりと伸びた奈津子の脚を
舐めまわすように見ながら、異様に赤い唇を音を立てて舐めた。
それは獲物を前にした蛇を連想させた。

奈津子は身の危険を感じ、
とっさに、テーブルに置いてあったクリスタルの灰皿を掴んだ。

「何を怖がってる? 俺はこう見えても紳士なんだ」

「…………」

「それに、女には興味がない。俺は忠実に仕事をこなすプロだ」

男は赤い唇を大きく伸ばして、声を出さずに笑った。
奈津子の顔は、恐怖でこわばった。

「アンタ、綺麗だな。恐怖におののく美女も、たまにはイイもんだ」

男は部屋の奥に入り、ベッドの裏側に手を入れた。

「何をしてるの?」

「若いって、いいよな。俺もあんた達の会話で、昔を思い出した」

男は、細長いマッチ箱のようなモノを取り出した。

「こんな、まどろっこしいお遊びは終わりだ」

それは盗聴器だった。

「全部、聴かせて貰ったよ」

「いつの間に……」

「だから、俺はプロだと云ったろ?」

今までの二人の会話が盗聴されたと知って、
奈津子は怒りと恥ずかしさで身体を震わせた。
だが、恐怖は続いていた。

「用が済んだら、さっさと帰って」

「まだ、大事な話が残ってる」

奈津子は灰皿を握り締めた。
その手は極度の緊張で汗ばんでいた。

「その前に、煙草くらい吸わせてくれよ」

男はスーツの内ポケットから煙草の箱を取り出した。
普段はあまり見かけない銘柄だったが、奈津子はそれを知っていた。

フランス製のその煙草はジタンといった。
『BAR バク』の常連、シマちゃんのお気に入りの煙草だった。
旨そうに煙を吐いてから、男は続けた。

「可愛い弟さん……、いや、息子さんだったな。可愛いさかりだ」

「何故それを?」

「だから何度も云ってるだろ? 俺はプロだって」

「まさか、あの子を……」

「物騒な世の中になったもんだ。子供から目も離せないなんて、悲しいねえ」

「あの子に手を出したら、許さないわ!」

「何を興奮してるんだ? 俺は、今の社会を嘆いてるだけさ」

男の顔は、自分の言葉に酔っているようだった。
二口ほど煙を吸ってから、ジタンを灰皿に押し付けて消した。

「話は、それだけ?」

「今のは、余談さ」

「…………」

「彼……森下さんだっけ? 司法試験を受けるんだってな? 裁判官志望らしいな」

「だから?」

「犯罪者が義理の父親ってのは、この先、いろいろと不都合だろ」

「父が、犯罪者?」

「まあ、いずれ分かるさ」

そのひと言は、奈津子に衝撃を与えた。
あの優しい父親が犯罪者とは信じられなかった。

「とにかく、あなたには関係ない」

「彼は、俺の大学の後輩になるんだよな。歳は離れてるがね」

「何が云いたいの」

「俺だって、ひまわりと天秤のバッジを襟につけた時代もあってな」

男は昔を思い出したのか、今度は、クックックッと声を出して笑った。
それは弁護士バッジの事を云ってるのだと、奈津子にも分かった。

「いまじゃ、違う金バッジをつけてるがね。こんな代物でも欲しがる奴は……」

「だから、何なの? 早く云って!」

これ以上、何を聞かされても驚くことはない。
奈津子は平静を取り戻していた。

「森下順一と別れろ」

「え?」

予想もしない言葉に、奈津子はたじろんだ。

(父のことはともかく、順一さんに何の関係があるって云うの?)

奈津子の頭は混乱した。

「もう一度だけ云う。森下順一と別れろ」

「どうして?」

「答える必要は無い。それに、もう、アンタはそのつもりなんだろ?」

この男は何でも知っているのだと奈津子は感じた。
たぶん、玲子に相談したことも……。

「違うわ! 私は、順一さんと別れたりしない!」

男は少し驚いたような顔をして、大きくため息をついた。

「女の気持ちは、コロコロ変わる。これだから、女は信じられない」

男は二本目の煙草に火を着けて云った。

「とにかくだ……」

奈津子は黙ったまま、次の言葉を待った。

「別れなければ、アンタの家族は不幸になる」

「どういうこと?」

「俺の話を無視すれば、みんな、不幸になる。アンタの可愛い弟も含めてな」

「何故?」

男は煙草の火を消そうとして、
なかなか消えないことに苛立った。

「質問はするな! アンタは黙って聞いていればいいんだ!」

奈津子は男のドスの利いた声に、委縮した。

「それと……、この事を彼に話してはいけない。逆らえば、同じ結末が待っている」

「そんな……」

「これは忠告だ。甘く考えるなよ、決して脅しではない。俺はプロだ……それを忘れるな」

男は、そう云い残して部屋を出た。
奈津子は呆然として、床にへたり込んだ。



皮肉にもあのジタンの吸い殻は、
順一との別れを加速することになった。

奈津子が話してないのだから、
玲子が知らなかったのも当然だった。

奈津子は目の前に広がる田園風景を眺めながら、
大きく深呼吸した。

(ここの景色、順一さんに見せたかったな……)
目の前に広がる稲穂を眺めながら奈津子は思った。

「夕暮れになると、金色の波のようでね、とても綺麗なの……」
奈津子は、胸をなぞった指を舐めて独り呟いた。

舐めた指は、しょっぱい味がした。
それが順一の涙に思えて、奈津子はその場で泣き崩れた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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