「それは、名前と言う名の『呪』だ。黒魔術は普通、呪う相手の名を呪術に使用するが、鬼頭はインド神話の霊鳥ガルーダを選んだ。確かにガルーダは不死であり、ヴィシュヌ神の使いになった。…しかし、その名前に忠実になりすぎたんだ。殺してまで、恋人を助けたかったのか」 御剣先輩はローヴを脱ぎながら、鬼頭にそう話し出した。 オレはパニック状態に陥っていた。 「うぁああああー!」 そして、慌てて鱗を探しに行った。 「鱗、鱗ーっ!何処だ、鱗!」家中を探し回った。いない、何処にもいない。 「鱗!」彼女はバスタブにいた。シャワーはバスタブに向いていて、中の水が溢れていた。 北海道の幻の魚、イトウが元気そうに泳いでいたのだ。飛鳥は信じられなかった。 「り…ん…」
地下の「ルシファーの砦」では、龍一がバラの花びらを一枚残らず拾い集めていた。 「どうするんだ、今度はお前が生き返らすのか」 御剣の問いにも答えず、黙々と袋に詰めていた。龍一は知っていたのだ。ミチルがあと半年しか生きられない事を。 「先輩、妹は俺が丁重に葬ってやります。あいつにとっては幸せな死に方だったかも知れない…」 十二人の内、御剣先輩とオレと美貴を残し、みんな帰ってしまった。 ふと、美貴に目をやると、生気のない顔をして立っていた。 「美貴…? どうしたんだ、美貴?」 「私、ここで何をしてたの…? 血が飛び散って、それから何が…」 最初はぼうっとしていたのに、次第に落ち着きが無くなり、かなり動揺しているようだ。 「私、私、女の子を殺したの? どうして? 怖い、怖いよ、龍一! 助けて!!」 「美貴、落ち着けよ。夢でも見てたんだ。大丈夫だから…」 彼女はオレにしがみついて、離れようとしなかった。いつも気丈で明るい美貴が…。 「いかん、橘はルシファーの呪いが憑きはじめている。単独行動に出たからだ。おまけに鬼頭の奴、全員に眼孔催眠をかけていたからな。…最も、オレはカラーコンタクト入れていたから無事だったが」 「そういえば、先輩、昔から入れてましたよね。光に弱い体質だって」 「それより、橘だ。待ってろ、聖水を肩に掛けてやる」 彼はスーツの内ポケットから小瓶を出し、美貴の肩に掛けた。そして徐に彼女の頭上で九字の刀印を結んだ。 「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前」 すると美貴は憑き物が落ちたように、がくんと足から倒れたので、慌てて支えた。 「…もう大丈夫だ。上のソファーで休ませておいたらいい」 オレは先輩の言う通りに美貴を一階にある応接間のソファーに横たえた。美貴…愛してるよ。 彼女の寝顔をじっと見つめていた。大切にしたい、心からそう思った。 「ふふん、恋人が助かって良かったな」 オレの前に再び鬼頭 飛鳥が現れた。鋭い目つきでオレを睨みつけ、不気味に笑った。 「あー? くっくっくっ…! カワイイ鱗は魚になっちまったよ。ひっひっひー! ミチルは…オレの大事なミチルは、何処だ? ミチルー?」そう言って地下室へと向かって行った。 (く、狂ってる…。鬼頭の奴…)
「ひっひっひっひ、くっくっくっく」 「鬼頭…?」御剣が帰り支度をしていた所、半狂乱の鬼頭が入ってきたのだ。 「おい、御剣! 今からいい物を見せてやる! お前を思い知らせてやる! へっ!」 そして鬼頭は魔法円の中に入り、自分の人差し指をメスで切りつけた。血が滴り落ちた。その指で魔法円の外側に正三角形を描き、呪文を唱えた。 「ザザース、ザザース、ナスザザース!」 すると鬼頭は正三角形の中に入り、御剣を見てニヤリと笑った。 「お前、何してんだ! やめろ! 鬼頭!」 笑っていた鬼頭 飛鳥の顔が次第に苦痛に歪んでいく。 「ううううぁぁあああー!」 その声に驚いた龍一が、地下室に戻って来た。 「どうしたんですか! 一体何が…?」 御剣は真剣な面持ちで、龍一を制した。 「まずい…。早く魔法円に入れ! 鬼頭は悪魔と合体する気だ。絶対に騙されるな!」 「悪魔と合体…?」 龍一は、鬼頭の苦しむ姿をじっと見ていた。すると彼の体は変化してゆき、マリリンモンローの姿になり、オレ達に媚を売る仕草をする。…何てことだ。まるで夢を見ている気分になった。 今度はクレオパトラ、卑弥呼…全く訳がわからない。 「お兄ちゃん…」(ミチル…!)オレはたった一人の妹を見て、我を忘れそうになっていた。 「龍一! 魔法円から出ては駄目だ! 悪魔に喰われるぞ!」 そうだった。これは悪魔の誘惑なんだ! 「このままだと、鬼頭も危ない」御剣も焦りが募る。 (ようし、いちかばちか、やってやろうじゃん) 「バン、ウン、タラク、キリク、アク! ノウマクサンマンダ、バザラダンカン!」 龍一がそう唱えると、後方から厳つい顔をした不動明王が出現した。 「西洋の悪魔よ、姿を現せ! 成敗してやる!」 すると鬼頭の体は筋肉が盛り上がり、背中から大きな蝙蝠の翼が生えてきて見る見る内に化け物の姿に変身して行った。 「…お前はルシファーか」御剣が尋ねるとすぐさまかえす。 「そうだ。闇の帝王、ルシファーだ。この男の体を乗っ取ったのだ。私はあのコロンゾンみたいに、クロウリーには吸収されはしない。この男はまだまだ未熟者だからな」 「その男の体から去るがいい、オレの式神がお前を追い払ってやる!」 不動明王は、ルシファーの翼をもぎ取った。 「そんな事、痛くもかゆくもないわ!」「辞めろ、龍一! その体は鬼頭の体その物だ」 「ちっ、ちくしょう! 戻れ、ノウマクサンマンダ、バザラダンカン」 「龍一、十二神将だ! 行くぞ」「そうか、はい!」二人は同時に式神を呼んだ。 「バン、ウン、タラク、キリク、アク! 青竜、勾陳、六合、朱雀、騰蛇、貴人、天后、大陰、玄武、大裳、白虎、天空!」 間もなく、十二神将たちが現れ、ルシファーの体を取り押さえると、魔界へと連れ去っていった。 鬼頭は元の姿に戻っていたが、背中に酷い傷を負っていた。 「鬼頭、大丈夫か。あんな無茶な事して…」 御剣は鬼頭が息をしているのを確かめてから、彼を背負い、応接間のソファーに寝かせた。 御剣は彼が静かに横たわっているのを確認すると、彼を残し応接間を出た。 いくつもの悲しい遍歴を重ねているこの応接間で一人、鬼頭 飛鳥は泣いていた。涙も拭かずに。 脳裏を駆け巡るあの時の鱗とミチルの叫び声を聞きながら、飛鳥は深く傷ついた意識の中で二人を抱いていた。 オレ達が車に乗ろうとした時、空を切り裂くような一発の銃声がどこからか聞こえてきた。 彼が、頭部を拳銃で打ち抜き、自殺したと知ったのは翌朝の事だった。
命の重さを知らぬ悪魔の化身が流した涙は、きっと不動明王が流させたのであろう、重い命の涙だったのかもしれない…。何かの終わりを告げるように、東の夜空に十字の光が浮かび上がった。 でも、御剣も龍一も、それには気付かなかったようだ…。
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