◆◇◆
啓は、じー、というやかんの音を片耳で聞きながら、ただ小さく縮こまっていた。それ以外にやることを見つけようと、周囲をそわそわと見渡しても、人の気配がするたびに縮こまらねばならず、結局のところ、高そうな黒い皮製のソファーに座る以外にはなかった。 高そうなのは、そのソファーのみではない。テーブル、本棚、カーペット、クーラー、カーテン……数えればキリがないが、どれも格調高く、値段も一筋縄ではいかないものばかりだと、見るだけでも分かる。まるでどこかの富豪の家へと紛れ込んでしまったかのような――いや、事実そうなのかもしれないが――感覚に、啓はめまいを起こしていた。 「ごめんなさい、こんなものしか無いのですけれど」 丁寧な物腰で、コーヒーを机に運んできたのは、この家――というよりか屋敷に着いたとき、出迎えてくれた女性だ。どうやらメイドだとかそういった人ではないのだろうが、ともあれ淑やかな女性だった。 「あ、いえ……」 そんな情けない返事しか出来ず、ただ縮こまる自分に、くすり、と笑みをこぼして、女性は台所の方へと戻っていった。 はあ、と溜息を吐く。とにかく落ち着かない。とはいっても、大人しく着いてきてしまった自分が悪いのだから、文句は言えないのだが。湯気の立つコップを手に取って、口へと運んだ。 「……おいし」 染み渡る暖かさ、というのはこういうのを言うのかもしれない。豆がいいのかもしれないが、きっとそれだけではこうはならないだろう。小さな、それもほんのりとした暖かさが、優しく染み渡っていく、感触。 コーヒーというものでこれほど美味しいと感じたのも初めてだ。二口、三口と口に運んで、溜息を吐いた。 (……でも、遅いな) ふと心の中で呟いて、このコーヒーを少しずつ飲んで待っていよう、と思った。 窓の外はもう夜だ。少しも眠くないが、あの男が来るまでに眠気が襲ってこないという保障はなかった。流石にこんなところで眠れるような神経ではないと自負してはいるが、どのみちこのコーヒーはありがたい。 ――そして。コーヒーも飲み終わり、少し暖かくなった体が醒める頃、ようやく男は姿を現した。額から頬に傷の奔る男を視止めて、啓はそちらへと首を回した。そのスラッとした長身と端正な顔立ち。美しい、とも妖しい、とも取れるその容姿と、その顔に奔る歪な傷は、あまりにも相反していた。 男は、その左手に青い小箱を手にして、居間へと足を踏み入れる。悪かった、とも遅くなった、とも言わずに、無言である。遅れて入ってくる少女――アリア、といったか――も、ぺこりとだけ頭を下げて、無言で足を踏み入れてきた。 二人は、自分の向かいのソファーに腰を下ろす。その体重を受け止めても、その高級なソファーは軋みもしない。 最初に口を開いたのは、男の方だった。 「まず、聞きたいことはあるのだと思うが」 「どうして俺を、ここに?」 殺さずに連れてきたのか、と。言外に問うその言葉に、男は顔を上げた。 「まずひとつ。お前を殺してしまっては支障が出ることが解った。そしてふたつ。お前に頼みたいことがある」 「……よく、解らない。最初からじゃないと」 ああ、と男は応えた。その空気は、冷気を纏う針の山のそれではなく、いつもよりも、幾分か緩んで見える。それはこちらに警戒心を抱かせないためなのかもしれないし、あるいはただ単純に気が緩んでいるだけなのかもしれない。その鉄面皮からは、そうだとはとても思えなかったが。 「そうだな、まず名乗るべきではあるか。名は四方院春日、という」 四方院、春日か。まさに日本人、って感じの和風な名前、だな――? 「……日本、人? でも、その目って……」 彼は、応えてはこなかった。ただ、崩れない表情に佇むその双眸が、彼の言葉が嘘ではないことを告げていた。 春日は、一度目を閉じてから、続ける。 「聞きたいことは山ほどあるだろうが、いちいち答えていては日が暮れる。こちらから質問させてもらうぞ――どうして、あの家に居た」 「え?」 「どうして、あの家に居たか、だ」 詰問口調のその言葉の意味が解らず、解らないながらも、正直に答える。 「いや……その、あれは、親友の家で」 「親友だと?」 春日は意外そうに眉をひそめた。――この男の表情筋に、眉をひそめる、という動作があったことの方がよほど意外ではあるが。 啓は、今までの経緯をかいつまんで話した。十年前に姿を消した親友、その家があそこであったということ、そして十年経った今でもあの家があそこにあり続けていて、自分がそこの片付けやら掃除やらをしていること。 話し終えるまでには、ずいぶんと長い時間が経ったような気がしたが、時計を見ても、三十分と経っていなかった。 「……なるほど。それで、あの少年ということか」 「え?」 「あの少年は、幼い頃のお前だ。そうだろう?」 ぴくん、と体が痙攣した。そんなこと、確か説明していなかったはずだというのに。やはりそう、この男は心が読めている――それはまるで、極寒の中に放り込まれるような恐怖だった。 ――だが、と啓は顔を上げる。聞かなければならないことがあるはずだ。 「知っているんですか?」 「何がだ」 「あの少年が、何なのか」 答えてきたのは沈黙だけだった。言葉は無い。ただ、その気まずいまでの沈黙は、痛いほどに男の言葉を物語っていた――そう、知っている……この男は。 数秒の沈黙の後、春日は、長い溜息を吐いた。まるで、その沈黙を惜しむように。 「知っている、と聞かれたところで、本質は知らない。俺が知っているのはその表面だけだ」 「それでも、いいんです。ほんのわずかなことでいい」 たとえほんのわずかであっても、自分は”アレ”のことを知らねばならない。そう思う。 もう一度長く溜息を吐いてから、春日はソファーに座りなおした。その鉄面皮に、やはり陰りが見えることはないが。静かに、口を開く。 「……この世界には、要素が三つある。物質、精神、そしてそれ以外だ。……いいから黙って聞いていろ」 その言葉に怪訝な顔をするこちらを制しながらも、春日は言葉を続けていく。 「この世界、目に見えるもの全ては物質だ。物質の起こす現象や法則も、これに入る。精神は目に入らないすべてのものだ。いわゆる心、脳の働きとかだな。これも一種物質の起こす現象だが、この二つは基本的に区別することにする。ここまではいいな?」 たん、と春日の靴がテーブルの足を少しだけ蹴った。動きもしない程度の動作に過ぎなかったが。 「そしてそれ以外、というのは、つまるところ物質でも精神でもないものだ。俺たちは『根源』と呼んでいるんだが、目にも見えず、頭で感じることも出来ない。それはまあ、いわゆる特殊な領域で、血反吐を吐くほどに特訓すればようやく触れることが出来る。……俗物的に言えば、魂だとか、魔力だとか、現代ではとても信じられていない、そういうものだ」 唐突にオカルトじみてきた話に、啓は眩暈を覚えていた。だが、どれだけ男の顔を、それこそ穴が開きそうなほどに見ても、到底嘘をついているようには思えない。――余計に、眩暈がしそうだ。 「……ええと、それとあの少年と、どんな関係が……」 困ったように尋ねる啓の言葉に、しかし彼は、その反応も予想していたのか、淀みなく続けてくる。 「”彼”がそうだ」 「え?」 ふう、と春日はもう一度長い溜息を吐いて、繰り返した。 「”彼”が、だ。あの少年は、そういったものだ。物質でもなければ精神でもない、いわゆる概念しか持たぬ存在。全てのもの内包する、あらゆるものの集約点。まあ、根源、とはそういう意味だ」 「で、でも……見えないって、さっき」 かつん、と彼の右手の指がデスクを叩く。というよりも、デスクに置かれた、彼が持ってきたあの青い箱を。 「そう。見えないはずだ、なのに見えてる……お前には。ま、恐らくはあの少年が、お前の姿をしてるってのに関係してるんだろうが」 男の表情は変わっていない。その後ろで、メイドのように直立する、あの少女の表情も。――ふと、思う。あの少女とまとに話したことがなかった。最初に会ったときは、随分と無愛想な少女だと思ったけれど、それは今もそうだ。もしかすれば、微笑むとかいうことも知らないのかもしれない。 視線を戻した。男は、こちらの動きは大して気にしていないようだった。ふと、青い箱を叩いていた手が止まる。 「俺がお前をここに連れてきた理由の二つ目。覚えているな?」 「……俺に、頼むことがある?」 そうだ、と男は言った。 「そしてそれは、お前にとって必要なことでもある」 彼の右手が、青い箱を開けた。そこに入っていたのは――寂れた一振りの短剣。随分と錆びていて、しかもどんな金属を使っているのか、奇妙な光沢を放っている。 「先ほど言っていた、あの少年の正体だが……ひとつの回答がある。あれは、お前だ」 男はもう溜息は吐いていない。その鋭い視線を、ただこちらに突き刺しているだけ、疑問の言葉さえ差し挟む隙もなくて。 「この街にはな、ひとつの特殊な場所がある。そこは”あちら側”――さっき言った、三つ目の要素だが、それに支配されている場所だ。……あの家だよ。お前がいつも通っていた、あのな」 三つ目の要素。物質でもない、精神でもない。それが、あの家――? 物質でもなければ、精神でもない。他の人には触れられない。確かにそれは、覚えがあった。他の誰もが、十年間もの間、あの家に気付いていなかったということ。 「恐らくそのせいで、お前というパーソナリティを、あれが形作ってしまったんだろうよ。普通、三つ目の要素はこちら側に存在することは出来ないが、お前の姿を形取ったことで、”あれ”はこちら側との接点を持った」 視界が歪んでいく気がした。眠気のような、眩暈のような――あるいは警告のような、そんな頭痛。早鐘のように響いてくるそれは、容赦なく啓の意識を揺らしていた。 「奴はお前だ。お前という存在の形を持っている。だがな、同じ世界に同じ二つのモノは存在することが出来ない。……結論から言うならば、このままではお前は必ず死ぬ。――だから」 青い箱、いや、その中に収められた一本の短剣が、こちらに差し出されてくる。錆び付いたその隙間から、妖しく輝くその光沢が見えた。 ……彼が、口を開くのが見える。 「――奴を殺せ」 錆色のその間に見える光沢が、にやり、と小さく笑った気がした。
「マスター」 呆然としたままの少年を、あの短剣(クリス)と一緒に部屋の一室へと押し込んで、春日は振り返った。その視線の先には、どこか視線を落としたアリアの姿。この少女がこんな姿を見せるのは、随分と久方ぶりな気がした。――といったところで、とても普段と見分けのつかぬ、ほんの小さなものではあるのだが。 「……良かったのですか、あれで」 「何がだ?」 答える声に、アリアは気まずげに視線を下げた。 「本当のことを……言わなくても良かったのかと」 「俺たちの目的をか? それとも、奴自身のことをか?」 少女はさらに目を伏せた。恐らくは、その両方なのだろう。 ……彼女の言っていることは解る。確かに、少年に語ったものが全てではなかった。だが、今それを言うわけにはいかない。少なくとも、今は。 「俺のようなものの存在は、口に出すことさえも禁忌だ。奴を確実に引き込めると思うまでは、少なくとも言わない。それはお前もよく解っているはずのことだろう?」 はい、と彼女は気まずげに答えてくる。あの頃ならば、きっとこんな表情をすることは決してなかった。そのことに思わず、春日の心は温かくなってしまう。 だが、それとは無関係に、春日は言葉を続けていた。 「それに……あれのことは、俺自身の目で見たことではない。おいそれとは言えんし、妙な自尊心を持たれても困る。そもそもあんなもの、間違いなく神話級だぞ? 簡単に信じるわけにはいくまい」 「……はい」 彼女の気持ちは、解るのだ。それのことを知らせてきたのは彼女の方だし、それのためにあれほどの深手を負ったのもまた彼女だ。正直、最初に見た時は信じられないものではあったのだ。彼女が標的を間違えてしまったのが発端とはいえ、ただの人間に、彼女をあれほど殺傷できるなどとはとても信じられなかった。 ふう、と春日は溜息を吐いた。何度目のものだろう――今日は随分と溜息の多い日だ。らしくもない。 「こんなことを言うのは妙だが、いつかは話すことになるだろう。それに――」 「それに?」 フ、とわずかに春日は口元を歪ませる。ほんの僅か、それも一瞬だけではあるが。 「まだ、何かがある。――それも、直に明らかになるだろうが」 窓から、空を見上げる。夜はまだ長く、朝はまだ遠いようではあった。
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いつの間にか眠った夜の、その目が醒めた朝は、未だに薄暗かった。青と藍が混じるその空のキャンパスには、やはりもう星は見えない。早起きの小鳥たちが、小さく泣いていた。 見慣れぬ天井、目を擦ると、そこは自分の部屋ではなかった。ああそうか――昨日、どうやら泊まっていってしまったらしい。服も着替えていなくて、風呂も入っていない。随分と気持ちが悪かったが、そんなことどころではないのだと、啓は思った。 (……違うんだ) ただ、呟いた。何が違うのかも、どうして違うのかも解らないままに。男が嘘をついていないことは解るし、真実を語っていたことも解る。だが、どうしても違う。何かが違う。まるで、歯車が忘れられてしまったまま動く、不器用なオルゴールのような何か。 自分は、あの少年を殺す。親友との接点であったはずの、あの少年を。
――この空は、どこまでも繋がっているんだ。
少年は、根源と呼ばれていた。あれは、自分があの家に接触したからこそ生み出された、もうひとつの自分だと。 だが。だが、あの親友はどこにいる? 幼い頃の自分、親友の家、二人で語り合った公園、その中にひとつだけ、あの銀の髪の親友の姿がない。まるで、それだけが空白のようで。――どうして? 目が疼いた。頭が痛い。意識が揺れる。……その意識の中で、啓は、小さく呟いていた。 ――行かねばならない。確かめなければ、ならないのだと。
空があった。今思えば、夕焼けで無いこの場所へ、こうやってここに来るのは久しぶりではなかったか。 はあ、と空に向かって息を吐く。冬だったら、白いそれが雲と溶け合って流れてゆくのだろうけれど。でもそれは、冬でも夏でも、いつまでも変わらないのかもしれない。ふと、そんなことを思った。 青いフェンスに区切られた、空と自分との境界線。この向こうに足を踏み出したら、もしかしたら空を飛べるかもしれない。理由もない、そんなくだらないだけの妄想。そんなものも、あの時から変わっていない。いつまでも、変わらなくて。 「君も、そう思うだろ?」 振り返りはしない。そこに、あの少年の姿があることは知っていたから。 青い空の遥か向こう、俯瞰の風景の向こうで、空と大地とが交わっているのが見えた。まるでそれは、世界を青く、ただ青く染めていくようで。啓は、振り返る。少年が、ふっと微笑んでいるのが見えた。 「……キミは、そう、やっぱり。俺だけど、俺じゃないんだ。そう、そう思う――」 うん、と少年は言った。 「解っているはずさ、キミはもう、きっと」 空が見える。まるで降るように、ただ青く、高くて、そして彼のように尊く。言葉が聞こえる。それはきっと残滓。でも、それが全てを告げていた。不思議な感覚が、そこにはあった――自分の中に何かが、何もかもがある、その感触。 「解って、そう、きっと僕は解ってしまうんだろうな。だから」 あふれてしまいそうな涙を、拭おうともせずに、啓はただ前を見た。 「君を、殺さなきゃならない。僕が、本当にすべてを解ってしまう前に」 うん、と少年は答えた。啓もまた、滲みゆく視界の中でうなずく。――青い短剣を握るその右手に、そっと力を込めて。
その少年の心を聞く前に、解った。色々なこと、全部。 ただそれでも、それに耳を傾けねばならないのだと、啓は、また解っていた。 ――それは、かつての淡い想い出。 その想い出は自分のものではないのだと、啓は気付いていた。
彼は、少年を見下ろしていた。泣きじゃくる、幼い黒い髪の少年の姿を。その少年のそんな姿は初めて見たし、それは余りにも孤独で、余りにも残酷すぎたから。だから自分は、ぽん、と彼の肩を叩いたのだ。 「ねえ、ケイくん。この空はね、どこまでも繋がって――」 空は、ただ青く、高く。意識は、そうやって途切れてゆく。
――また、少年は泣いていた。黒い闇に捉えられて、身動きも出来ずに。その少年のそんな姿を見るのはただの二度目で、そしてそれは余りにも残酷で、余りにも皮肉なものだったから。 だから、自分は手を差し伸ばしたのだ。彼の全てを奪う代わりに、彼がもう泣くことがないように。 彼は、自分のことをもう思い出せはしないかもしれない。だとしても、彼の涙は見たくなかった。幾つもの時を生きて、幾つものことを見てきたからこそ、その少年の涙だけは見たくなかった。その代価を払えるだけの、生き方をしてきたつもりではないのだけれど。けれど、こんなカタチで支払うことが出来るのなら、それはなんて幸せなことなんだろう。 でも願わくば、いつか彼が自分のことを思い出して、いつか自分に触れてくれればいい。少年が大人になって、老人になって、涙が枯れた頃にでも。ああでも、その前に死んでしまったらどうしようか――。 残した言葉は無かった。それに後悔はない。
――暗い、根源の底の中で、ふっと、気がついた。 永劫とも思える闇の中で、自分が引き出されていくのを感じていた。もしかすれば、もしかすれば。 ……もしかすれば、彼に会えるのかもしれない。あれから、どれくらいの時が経ったのかは解らないけれど。 ああでも、それは困る。彼に会えるなら、きっと自分は、彼に殺されなければならない――。 そうして、初めて呪文は終えるのだ。この、どこまでも長い、最後の魔法の。
ああ、視界が歪む。涙が流れるな、と思った。 ――ああ、本当に、自分はバカだ。彼のことを忘れてしまって、自分を何度も救ってくれた、彼のことを忘れてしまって。何度も自分をかばってくれた、あの少年の顔さえも忘れてしまって。 目の前に立つのは、幼き日の自分の姿。でもその輪郭に、あの銀色の髪の少年の輪郭が、だぶって見えた。……ふと、滲む視界が止まる。ようやく思い出した、その親友の笑顔に。 ああそうだ。泣いてはいけない。泣かないように、顔を上げなきゃいけない。胸を張らなきゃ、いけない。 「……終わらせるんだ、全部」 少年は、ただ立っている。その時を、終わりを、ただ待つかのように。 ぐっと、その短剣を持つ手に力を込めた。繰り返す言葉。――終わらせるんだ、全部。 そして。まるで、抱きしめるように。その錆び付いた刃を、それに突き刺した。
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「――何度聞いても、信じられんな。本当に」 「確かに、そうではあるが」 事務所の、真正面のデスクにどっかりと座った白い髪の男に、春日は肩を竦めて見せた。見せるものの、現実がそうなのだから仕方があるまいだろうに、と心の中で呟いて。 「だがな、ザーベルク。正直なところ、今回一番損したのはこっちだ。駆けつけた時には、ガキが一人で座ってるだけ」 鉄面皮のままに訴える春日に、白い髪の男――ザーベルグは、加えていたタバコを灰皿へと押し潰し、不機嫌に答えてくる。 「掘り出し物ではあるだろうが。精霊眼など、私なら目をくり出している。お前は、魔術師の割に人善しが過ぎる」 「俺もそれは考えたがな。あんなものの移植法なぞ知らん」 標本漬けにしておくだけ、などというのは趣味ではない。魔術師は研究のために生きる、とは言うが、春日自身は知識よりも実践の方に興味があった。 パッと、ザーベルグが手を振った。途端に、鼻を突いていた白い煙が一瞬で消え去る。 「しかしそれ以上に信じられんのが……あの根源の中身だ」 ああ、と春日もそれに同意する。火のないところに煙は立たぬ、とは言うが、まさかあんな大物が関わっていたとは思わなかった。というよりも、誰も思うはずがない。 「おかげで、こちらは協会への報告書で徹夜だ。どうしてくれる」 「知ったことか」 あっさりと斬り捨てて、春日はデスクに散らばっている――ばら撒かれている、と言うべきか――資料の一枚を手に取った。 それは、一人の魔術師の資料だった。――ただし、名前の欄に、記入がない。むしろ、記入が出来ないというべきか。それはこの世界で唯一、名前を持たず、持つことの許されない魔術師。顔の写真もなく、経歴も全く不明。ただそれでも、魔術師たちにとっては大きな意味を持つ魔術師……魔法使いの一人だった。 それは、名を持たぬという魔法。その存在は全てと等価であり、それゆえに全てに変化することができる。誰しもにとってのドッペルゲンガー。だがその実その魔術、否、魔法は、この世界に二つの存在を同時に許してしまうという危険なものだ。それこそ、どちらかが消えてしまいかねない。 ――つまるところ。世界を丸ごと滅ぼすことさえ出来る魔法だ、とも言い換えることも出来るのだが。だが実際のところ、それは魔術師たちにとっては革命だった。魔術では決して扱うことの出来ぬ奇跡、それは神の領分。 「……?」 ふと、眉をひそめる。その情報の最後に書き込まれた、たった一文字を見つけて。 「何だ、これは?」 「さあな。本人に聞いてみてはどうだ?」 ――窓から吹き込んできた風が、そっと頬を撫でた。
――緑の匂いを運んできた風が、そっと頬を撫でる。 啓はたったひとり、公園で空を見上げていた。どこまでも近くて、どこまでも高い青い空を。そういえば、彼ともこうやってよく空を見上げていたっけな。 空に向かって、手を伸ばした。ふっと、つい頬が緩んでしまう。 この空は、遠く、どこまでも繋がっていて。きっと、もう姿も見えることのない彼のところにまで、ずっと。だから、もう涙を流す必要なんて、これっぽちもないんだ。 ぬくもりを感じる。彼はきっと、そこにいるんだ。きっと、自分が大人になって、老人になって、涙が枯れてからも、ずっと。いつまでも、この空は変わらないはずだから。 息を吸った。胸に吸い込む。ああそうだ、僕はここにいる。そして、君もそこにいる。ただ、それだけでいいんだ。 「なあ、そうだろ?」 言葉を紡いだ。あの青くて高い、それと同じ名前の友人に。去ってゆく前に、自分だけに教えてくれたその名前に。
……涙の粒が一筋、すっと頬を伝って、地面に落ちた。
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