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空の傷痕 作者:禍罪朱

第2回   2 / 日常の境界線
◆◇◆

 目が醒めたときには、家だった。
 見慣れた天井、見慣れたカーテン、触り慣れたベッド、触り慣れた目覚まし時計、聞き慣れた小鳥の囀り、聞き慣れた近所の井戸端会議……。何もかもがいつもどおりで、カーテンの合間に、わずかな朝の日が漏れていた。匂いも、感触も、音も、風景も――何もかもがいつも通りで。違っているものは……。
(違っているものは、何だ?)
 思いつかない。違っているものは、何だろう。何もかもが日常で、何もかもがいつもどおり。そこには脅しを掛けてくる男も、醒めない夕焼けも、幼い頃の自分も、刃を振り回す死神のような、あるいは天使のような少女も無かった。
(あ――……)
 鮮明に思い出された光景が、眠気を一気に吹き飛ばした。昨日の夕方に起きたこと。あまりにもいきなりで、あまりにも色々なことが起きてしまったから、何がなんだか分からない。
(夢? ……違う)
 夢ではなかった。あの痛み、あの感触、何もかもが。服には何の汚れもなくて、何の痛みもないけれど、あれは紛れもない現実。何ものでもない、本能がそう告げていた。
 カーテンを開けてみる。そこには、いつも通りの朝の空。青く澄んだキャンパスに、白い雲が流れてゆく。高さの低い雲が、高い雲を追い抜いて、ただ前へ前へと泳いでゆく。
(この空の向こう、雲の辿りつく先に、君は繋がっているのか――?)
 いつか、その約束をした彼――名前さえも忘れてしまった友人に、啓は、ただ言葉を投げた。


 その日の学校は、何事もなかった。不思議と昨日の名残、それこそかすり傷から筋肉痛に至るまで一切なく、その上あまりにも平和だったので、幾度なく夢かと疑いかけていた。だが一方で、本能がそれを拒絶していた――あれは、夢ではないのだと。
 その放課後。啓は、教科書類を鞄に詰め込む最中に、背後から声を掛けられた。
「啓、今日はどうするの?」
 振り向く必要も無く、その声の主は分かっていたが、啓は振り向いた。それが礼儀というものだし、この少女の笑顔を見るのは、それそのものが平和の象徴のようで、好きだったから。
 振り向いた視線の先、一人の少女がいた。艶やかな長い黒髪、美しいかんばせ、柔らかな物腰――白木沙弥加。この学園に、比肩なき美少女である。時折間違えられてしまうこともあるが、決して恋人のような関係ではない。……こんなパッとしない男と、どうして彼女のような美少女が恋人に見えるのだろうか。
 彼女は自分の幼馴染。幼い頃から両親を亡くしていた自分に、近所に住んでいた彼女が色々とおせっかいを焼いてくれたのだ。両親に続いて、親友さえ無くしていた自分にとって、その差し出された手がどれほど暖かかったものか。
 幼い頃は彼女を意識することも幾度となくあった。だが、流れゆく月日の中で、少しずつ少女が女性へと変貌していき、まず自分と彼女が恋人になるようなことはないと、そう悟らされてしまったのだ。
 そこにはゲームや漫画のような、優しく甘い恋愛が介在する気配などは一切無く、もはや確信に近く揺るぎない。あくまでも幼馴染、それも友人という意識は徹底されていて、彼女も恐らくそうなのだろう。
「今日は、ちょっと寄るところがあってさ。一人でどうにかするから大丈夫、っておばさんたちにも」
「うん、解った。……でも、昨日もだったじゃない? もしかして、恋人とか?」
「無い無い」
 興味深げに、しかもどこか楽しげに問いかけてくる彼女に手を振りながら、席を立つ。いつも穏やかな彼女のこういう姿を見られることは滅多に無く、少し得した気分にもなった。……それが自分にしか見せない、という類のものでないことぐらいは弁えているのだが。
 そして啓は、教科書を入れ終えた鞄を、カタン、と机の上に立たせてから、声を紡いだ。
「ところでさ、沙弥加」
「うん?」
 微笑のままに返す彼女に、しかし言葉を迷っていた。
 引っかかる、あの言葉――殺すしかない、と囁きかけたあの言葉。あれからの意識はないけれど、その後に、それを実行しなかったという確証がどこにあるだろうか。それを思うと、いつも背中に冷や汗が流れる。
「昨日……こう、なんていうかさ」
 しどろもどろになりながらも、声を繋いでゆく。その言葉を選ぶのは随分と難しかったが。
「ヘンなこと、とかなかった?」
「ヘンなこと、って?」
 沙弥加が首を傾げる。それはそうだ、こんな言葉で伝わるはずがない。
 さらにしどろもどろになって、それこそ底なし沼にはまってしまった気分になりながらも、啓は言葉を繋いでいく。
「ほら……殺人、とかさ」
 結局、そんなことしか言えない。まるでこれでは、犯行の発覚を恐れている殺人犯のようではないか。
「えーと……少なくともニュースでは言ってなかったし、近所の人たちも騒いでなかったけど……」
「そ、そう。ならいいんだ」
 もうダメだ。もし本当にこれで死体でも発見されようものなら、まず最初に疑われるのは自分だ。たとえそれが少女のものでなくとも。啓は、たとえようもない落胆に包まれながらも、鞄を手に取った。
 努めて平静を装いながら、啓は沙弥加に笑顔を向ける。
「んじゃ、俺は行くよ。おばさんたちによろしくね」
「あ、うん……」
 いまいち気乗りしていない様子の沙弥加に背を向けて、そそくさと教室を出てゆく。……気乗りしないのも当然だ。あんな怪しい上に意味のわからない質問をされたのだから。
 はあ、と溜息ひとつを吐いて、啓は、あの場所へと向かった。――昨日と同じ、あの家へ。


 着いてみて、まずほっとした。そこは何も変わっていなかったから。
 いつもと同じ空気で、いつもと同じようにそこにある。この世のものではないかのような静謐。主を失った家。そこはまるで、他の世界から切り離されたような場所だと、ふと啓は思った。……まったく。なんで今日になって、そんなことを思うのだろうか。
 縁側には、昨日と同じように夕焼けの光が差し込み、庭の池もまた、同じように光を返していた。そう、昨日と同じように――。
 ……どうしてこんなところに来てしまったのか。ふいに、そんな声が胸で呟かれた。そう……昨日と同じなのだ。あの、死にかけるほどの目にあった、昨日と同じ。どうして、そう、どうして。
 ふいに、あの少年の顔が頭に浮かんだ。幼き日の、少年の顔。
(気になる、のか)
 自分と同じ顔。ただ単に、似ているだけなのかもしれない。だが……だが、違う。あの世界、あの非日常、あそこに居たのならば、その少年はただの少年ではない。そんな気がする。それに――。
 がたり。唐突に、静寂を破った物音に、思わず啓は振り向いた。
(昨日と同じ……)
 誰もいないはずの家。誰も住んでいないはずの家。彼が姿を消した、十年前から、ずっと。
 がたり。
 ふと聞こえた物音に、啓は振り向いた。昨日と同じあの男か――殺意への緊張と、昨日に辿りつくことへの期待を込めて。――そして、振り向いた、その先には。
「…………」
 こちらへと手を差し出す、幼き日の自分の姿。そして、差し出されたその手、無垢で純粋な、紅葉のようなそれを見つめながらも――啓は眩暈を覚えていた。……幻覚ではないのだ、これは。幼い自分に似ている近所の少年だとか、そういうものでもない。ただ現実にそこにある、ありえるはずのない真実。瓜二つ……幼き日の写真に映る自分、その姿。
 揺れるような意識の中、それでもはっきりと解っていた。その少年が自分であって、そして自分でないことが。
 少年が、急に踵を返す。こちらに手を差し出していたこともなかったかのように、わき目も振らず。開け放たれていた扉をくぐり、薄暗い玄関の方へと駆けていく。
「ちょ、待っ――」
「無駄だ」
 ぴしゃりと、男の声がこちらの動きを遮った。冷たい空気を肌に感じながらも、横、声が聞こえてきた方向へ視線を向ける。
「追いかけたところで、奴はもう姿を見せまい。そういう”存在”だ」
 必要なこと以外は語らない、その口調。ゆえにか、その一語一句には重みがある――いや、それだけではないのだろうが。男の纏うその空気は冷たく、また重い。
 端正な顔立ち、夕焼けに流れる黒の髪と、青い瞳、そして眉間から頬へと刻まれた、歪な傷――。男はその口を無造作に開いて、そして続けた。
「奴が存在しないことを定義すれば、どこにも存在しなくなる。あれはそういうモノだ」
「知ってるんですか!?」
 口から出たのは、ただの疑問のはずだった。だがそれは、自分が思っていたよりも、どこか切羽詰ったように吐き出される。その声量の大きさが、そこを包んでいた静寂を突き破って、啓自身さえも驚かせていた。
 だが、そんな動揺もどうでもいいかのように、男は無造作にこちらに瞳を向ける。そうだ、この男はこちらの心を読む――それを思い出した瞬間、まるで、吹きすさぶ寒風の中を裸で歩いているような、そんな感覚を覚えた。
「奴が何者か、か? それを知っているからとて、お前に教える道理がどこにある。忠告を違えたお前に」
 ――命の保障はしない――
 感情のないその一言に込められた何か。それが、容赦なく胸へと突き刺さってくる。人は、それを何と呼ぶのか――そう、それは死というものの絶対的なイメージ。殺気という、死へと誘うその感触。
 男が手を差し出す。ただそれは、こちらを誘うそれではなく、こちらへと差し出される何か――。
「あ……」
 声が漏れた。――空気が違うのだ。昨日のあの殺気と同じそれではなく、むしろあの少女の持つ剣へと抱く、そのイメージ。明確たるカタチを持って迫る、死というそれ。
 掌ひとつ、それだけだ。それだけというのに――体が震えて動かない。目を合わせられず、顔も上げられない。上げてしまえば、そう、悟ってしまう。
 ――どれほどの時間が流れただろうか。十分、二十分……いや、それは一秒だったのかもしれないし、あるいは一瞬だけだったのかもしれない。だが自分にとってのそれは、永劫のものと等しかった。
「……チッ」
 無くした時間の感覚を打ち破ったのは、意外にも、男の舌打ちだった。
「焦ったか? アリア」
 その言葉の意味は解らない。が、男はこちらではないどこかを見上げていて、いつしか、こちらへ差し出していた手も下ろしていた。――あれほどまでに殺気に歪んでいた空気が、綺麗さっぱりと消えてしまっている。
「一つだけ教えておく」
 そうしてから彼は、虚空を見上げた目線を下ろして、また再びこちらへと向けてた。その空気は、もはや殺気の刃のそれではない……が、こちらを萎縮させるだけの危険な光を、未だに秘めていた。
「この家と、少年に近づくな。――死にたくないのならばな」
 男は、足を進める。手も足も動かないこちらの横を、何事もなかったかのように平然と通り過ぎて……そして居なくなった。――急速に襲い来る死への実感と、それから脱したことへの安心で、がくり、と足から力が抜ける。
(殺される……かと、思った)
 理由もわからず、ただ殺されると思った。捕食されるわけでもなく、快楽のためにでもなく、ただ殺される。それこそ、道端をゆく蟻が潰されるかのごとく。それはあくまでも日常、だが人が狂気と呼ぶもの。
 死というものは一切の終わりだ。その先には何もなく、その前さえも全て無駄に帰す。努力も、涙も、経験も、未来も、何もかもが一瞬にして失われる終わり。それが死だ。その死に直面する恐怖などと、生憎とそんなものへの耐性は持っていない。
 助かったのは、単なる奇跡でしかないと、それも本当にただの幸運だと、心のどこかが告げていた。宝くじひとつ、景品ひとつさえ当たったことがないというのに、ここに来て、昨日今日と幸運が集約されているかのようだ。
(いや、不運か? どっちにしたって生きてる……それでいいか)
 今すぐに帰って寝て、明日からはこの家にも来ず、あの少年のことも気にせず生きていけばいい。そうすれば殺されることはないはずだ。あの男はわざわざこちらを殺しにくることようなはしない、きっと。
「……だけど」
 だけど。だけど何だというのだ? 思いもせず出た言葉に、啓は自問した。
 今すぐに帰って寝る。あの少年のことはもう気にしない、日常に戻る。明日の晩飯は沙弥加の家でご馳走になって、普通に学校に行って、友達と遊んで……他に、何がある?
 だが、と心の中で繰り返す声に、啓はかぶりを振った。バカバカしい。さっさと帰ってしまおう。

――この空はどこまでも、ずっと繋がっているんだ。

 ふと零された声に、顔を上げる。どうして、今それを思い出してしまうんだろうか。あの銀の髪の親友の言葉が、どうして今浮かんでしまうんだろうか。
 十年の間、彼が消えて十年の間、ずっと耳から離れなかった言葉。離そうとしなかった言葉。彼は、ただ美しかった。今まで見た誰よりも気高くて、今まで見た誰よりも尊かった。
 だがどうしても、その顔だけは思い出せることはなかった。今まで、ずっと。
 そして、どうして。どうして、その銀の髪の少年と、あの少年、かつての自分の姿を重ねてしまうのか。
 接点だからかもしれない。あの頃、きっと自分の傍には彼が居た。だからこそ重ねてしまうのかもしれない。
(――そうだ)
 失うわけにはいかないのだ。顔さえ忘れてしまった、その親友との接点を。今までこの家と公園としかなかった二人の接点が、ここに来てひとつ増えたのだ。あの少年。
 ……そうだ。今までずっと求めていたのではないか。彼との、あの親友との繋がりを、ずっと。
 踵を返す。あの少年が次に現れるとするならば、どこか。それは解っていたから。

◆◇◆

 彼と自分との関係というのは、得てして異質だったように思う。
 というのも、自分は彼の家は知っていても、詳しいことは知らなかった。どうして髪が銀色なのか、どうして父も母もいないのか、どうして自分以外の誰も、彼のことを知らないのか――。
 だが別段、問いただそうとしたこともなかった。彼は自分の友人だったし、自分もまた彼の友人だった。子供というものはその程度で満足するもので、それが一体どこから来て、どこで何をしていようとも関係がない。
 ただ、銀色のその友人は、いつも微笑んでいた。誰よりも気高く、誰よりも尊く、それこそ空のように。彼の居た日常はあまりにも普通で、あまりにも幸福だった。父がいなくとも、母がいなくとも。
 ――これは後に聞いたことだが――母と父は、交通事故で亡くなったのだらしい。葬式は身内でひっそりと行われ、出席した誰もがその死に涙していた。
 だが一方で、啓はわかっていた。そこにいた誰もが、本当に心から涙を流していないことを。
 少年の父母の葬式はなかった。だが、彼の家を訪れたいつも、父も母も居なかった。その気配さえなかった。だが少年達にとってそんなことは関係なく、低い背丈で料理を作り、小さい体で暴れるように必死で遊んだ。
 一年という月日は、あまりにも短かった。ある日目を覚ませば少年は居なくなり、誰に聞いたところで、その少年を知るものはいなかった。
 ――その他のことは、もうよく覚えていない。


 風が、頬を撫でていた。
 煌く夕日、昨日と同じ紅い空。その中で、紅い空を背に、少年がこちらを見つめていた。
「…………」
 啓は、言葉を失くす。本当に、どうにかしている――自分がか、それとも少年がか、あるいは世界がか。どうしてだかは解らないが、ただ言葉を失くしていた。
 夕焼けの空は変わっていない。赤く錆びた鉄棒が、静かに照らし返す光も、山間に沈みゆく紅い光も――そして少年の頃の自分も、変わらずにそこにある。そう、まるで、いつか見たあの青い空のように。
 少年は、ただ微笑った。花のように、にっこりと。その微笑に、ズキンと鈍い痛みが奔る。まるで、心の中で何かが暴れまわるような、張り裂けそうなその痛み。その苦痛に、視界が揺れた。――この感覚がなんなのか、啓にはわからない。解らないまま、少年を見つめていた。少年もまた啓を見つめていて、交差するその視線の中、言い知れぬ違和感を、啓は抱いていた。
「こんにちわ、啓」
 初めて聞いた少年の声は、紛れもなく幼き日の自分のもので。汚れも知らない頃の、自分の。
(……何なんだ?)
 反芻される違和感の中で、啓は自問した。自問する中で――どうしてだか、不思議と落ち着いている自分がいる。
(これは、俺?)
「僕は君だよ」
 少年は、静かに告げる。別段、驚きはなかった。きっと、応えてくれるのだろうと思っていたから。夕日もまた、彼と同じくらい静かに、その公園を紅く照らしている――。
「でも君は、僕じゃない。そうでなければならないから」
 その場所は、静謐だった。少年の語る言葉もその一部でしかない。ただ静かに、染みるように、時が止まるような静寂が流れてゆくのみで。――少年は、また口を開いた。
「だって、僕は君の――」
 ふっ、と消えた。崩れるようにして。音はなく、ただそれでも静謐が崩れる感触がした。
 ガンッ! 次いで響いたのは、静寂にはあまりにも不似合いな、何かの破壊音。目を見開いた瞬間には、漆黒の巨大な刃が、先刻少年が立っていたはずの場所を、容赦もなく破壊している。
 その威力たるや、尋常ではない。土を掘るとか埋まるとか、そういったレベルではないのだ。それこそ大地を「破壊」する一撃は、礫を舞わせ、砂利を飛ばし、砂塵を立ち込めさせる。その威力を眼前で感じていた啓は、飛び来る大地の残骸から、顔を背けて顔面を護っていた。
 黒く巨大な刃。そして、それを自由自在に振り回し、一撃必殺を見舞うあの威力。それには、覚えがあった。
 砂塵の中、ひらりと舞う紅い髪。その体勢を即座に立て直し、構えを取る。少女が破壊したその場所に、既に少年の姿はなかった。昨日と同じ、身軽な黒い服に身を包んだ少女は、油断なく刃を構えている。
「上だ、アリア」
 次いで聞こえてきた声は、さらに啓をぎょっとさせた。アリア、と少女を呼ぶ声――その冷たい声は、やはり覚えがある。
 その声に反応するように、少女は、上方へと跳躍。膂力のみでなく脚力も人外なのか、一瞬で木の幹のところまで跳躍している。高さにして約四メートル。人類が跳躍できるような高さではない。
 少年は、立っていた。木にではない、空中に、立っていた。
(なんなんだ、これは)
 これではまるで人ではない。少女だけではない、幼い頃の自分さえも。――ふと、あの男も似たようなものなのだろうか、と思った。声が聞こえたほうへと振り返る。
 収まりだした土煙のむこう、長身の男のシルエットが見える。それは、目を閉じても離れない、あの男の。
 そうこうしている内に、少女は更に跳躍していた。空中に立つ少年の下へと。さすがに中空に立つ法は持たぬか、その巨剣を、少年に向かって縦へと大きく一閃する。
 死んだ――とも思えた一瞬、降ったのは少年の血ではなく、少女の身体だった。目に見えぬ何かに弾かれるように、空中で後方へと吹き飛ばされたのだ。がらん、と巨剣が大地に落ち、凶悪な凶器からただの剣へと変わる。少女の身体は、容赦なく地面に叩きつけられる。
 ――まさか、と思った。あの少女が、まさか地面に叩きつけられるなんて。それも、幼い姿をした自分に。
「……フン。さすが、か」
 声に振り向く。土煙が晴れ、開けた視界に、男の姿が見えた。黒い髪、端正な顔立ち、そして顔に奔る傷跡。男はあくまでも無表情のまま、背後で立ち上がろうとしている少女に、言葉を投げた。
「立つなアリア。先の傷で全力を出せぬお前には、無理だ」
「……しかし、マスター」
 引き止める少女の声を背に、男は少年を見上げていた。少年は、あくまでも微笑んだまま、斬りかかられたことも意に介さぬように、二人を見下ろしている。
 対峙する三つの姿。自分に死というイメージを与えた男、自分を切り殺そうとした少女、そして、幼い頃の自分。自分の目線はどこに行けばいいのか、それもわからず、啓はただ三者を見回していた。
「少年」
 それは、果たして自分を呼ぶ声なのか、それとも幼い頃の自分を呼ぶ声なのか。解らなかったが、啓は振り向いた。振り向いて、そして男と目線が合う。
「さっさとこっちに来い――ぼうっとするな、死にたいのか?」
「え?」
 言葉の意味が解らず、少年を見上げる。見上げると、少年は微笑んで、頷いて見せた。よくはわからないが、あの男のところへ行かねばならないらしい。それだけ理解して、ゆっくりと、男の近くへ歩み寄った。
 静寂。そこにあるのはそれだけだった。クセのある土煙の匂いに、わずかな血の匂い――少女のものだろう――が混じって鼻を突く。思わず咳をしそうになったが、それも我慢した。――そんなことを出来るような空気ではない。頬を撫でる風はぬるく、沈まない夕日は紅い。
 そして。幾ばくかの沈黙の後、口を開いたのは、少年の方だった。
「君たちに、僕は殺せない」
 ぴくり、と男の体が痙攣する。この男でもこんな風に動揺することもあるのだと、緊張する空気の中で、そんなことを思っていた。
 少年が、優雅に、それこそ歌うように続ける。
「だってそうだろう? それが僕にとっての盟約だから」
「だとしても」
 男は見上げ、応える。直立不動、鉄面皮のままに、その表情は少しも崩れはしない。だが啓は、その頬に流れる一筋の汗を見逃していなかった。――やはり緊張しているのだと、理由もなく思う。
「俺はお前を見逃すつもりはない。――必ず、殺す」
 告げられる先刻。殺気に張り詰められる空気。――ああ、やはりそうなのだ。この男は、そのために生きている。その身に纏う死の気配も、すべて、そこに向けられているのだ。
 その殺気という針の山を向けられた少年は、やはり微笑んでいた。それこそ、天使のように。そして背を向ける――逃げるようにではない、ただの自然体で。そして、誰もそれを止めようとはしなかった。少女も、自分も、そして男でさえ。
 ――そうして。少年の姿が、気付かぬうちにさっと消えて。……風が、彼の気配を静かになぞった。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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