――空が見える。どこまでも続く、高い空が。
「この空はどこまでも、ずっと繋がっているんだ」 それは自分がまだ、幼心でしかなかった頃の話。とても古ぼけて、今では色褪せてしまった――けれど、僕が彼に対して覚えているのは、正直、この記憶しかない。 公園の小高い丘の上、自分と同じくらいの背丈のその友人は、胸を張って空を指差していた。 「遠くにいる父さんにも、母さんにも、ずっと繋がっているんだよ、ケイ」 銀。その頃、少年に抱いていたイメージはそれだった。銀色の髪、日本人のそれではない、髪。自分はそれが少し羨ましかった――どうしてだったろうか。 目を輝かせた少年の言葉。それに少しだけ頭を上げて、そしてまた膝の間にうずめた。自分は知っていたんだ。死んでしまった父も、母も、もうどこにもいないのだと。 「違うよ」 彼は、まるで心の声に応えるかのように、言葉を放った。はっと、顔を上げる――そこには、待ち構えていたかのように、誇らしい花のように微笑む、友人がいた。それを見て、思ったのだ。ああ、これは、なぐさめでもなんでもないのだ、と。 「お父さんとお母さんはお星様になって、あの空とお星さまは友達なんだ。だから、どこにいたって繋がっているんだよ、ずっと」 そのときの僕は、真っ直ぐな瞳に射抜かれるように、ぜんぜん身動きなんて出来なくなっていて。 だから。ただ、小さく呟くしかなかった。 「キミ、とも?」 呟く声に、うん、と友人はうなずく。その、花のような笑顔と一緒に。 見上げる空は、ただ高く、青く滲んで――
――そして。一年後の同じ日に、少年は姿を消した。
空の傷跡 〜 エーデルたちの銀の歌
夕の日。街が、黄昏に赤く沈む頃。その街の片隅で、四方院春日は、ふと足を止めた。 出かけたのは、別段、何か特別なことがあったからというわけではなかった。……デパートの特売を特別なことだと呼ぶのなら別ではあるが。それゆえに、この事態も全く予測していなかった、と言っていい。実に今日は幸運だ。 足を止めたのは、自宅――というよりか、事務所――とデパートを結ぶ、直線状に位置する公園だった。錆色の鉄棒は、赤く薄い紅の光を宿し、妖しくきらめいて見える。 山間に沈みゆく、その紅色の光。そこにはもう、昼にあった夏の熱は無く、今では紅く透き通って光差すだけだ。 (…………) 春日は、端正なその顔の造形をわずかに歪め、眉に皺を寄せた。その視線の先、いつもは何気なく存在しているその公園も、幻想的な風景に変貌している。 ふと、口を開いた。それも、誰も聞き取れないほどの小さな呟き。 「……始まるか」 小さく、小さく呟いたそれは、誰の耳にも届かず、ただ虚空へと散り消えてゆく。 そして。それのわずかな余韻が消え去る、ほんのわずか前。春日は、家の方角へと足を向ける。 ……そう。全てが始まる。 春日は、その言葉を口には出さずに、ただ胸の中で噛み締めていた。
夏の夕暮れ。街が赤く染まり、庭の池も――鯉の一匹も、もういはしないが――その光を照り返して、うねるように乱反射させていた。縁側にまで侵食してきた紅い光に、来栖啓は、自分の立つその古ぼけた家へと、再び想いを馳せた。 来栖、啓。その名前をもう一度心の中でかみ締めた。啓は、ひろし、とかではなく、ただ単純に「ケイ」である。考えてみても、随分と珍しい名前だ。来栖、という苗字も、啓、という名前もクラスのどこにも、自分以外に見当たらない。間違えられ難くて良い、というのもあるのだろうが、珍しいその名前の割に、容姿も運動神経も性格も、全て平凡だったというのはとんだ皮肉に違いない。黒い髪に黒い目、あくまで一般的な高校生。夏の制服で、メガネもなければ髪も染めていない。ピアスもつけてなければアクセサリーのひとつもない。――それ以上でもなければ、それ以下でもない、そのものだった。 ふと、天井を見上げる。純和風。その家を何かで形容すべきだとするならば、それだけだろう。ただ、肯定したくもないひとつの名前を除いてしまえば。古ぼけている、といったところで、崩れそうなほど致命的にボロボロだというわけではない。事実として、この家に蜘蛛の巣ひとつ張っているところさえ、啓は見たことがなかった。 紅い斜陽。美しく光るルビー色の輝きは、徐々に山間に沈みつつあった。……はっとする。このままでは、あと三十分としないうちに日が沈んでしまう。ここから自分の家までは、それなりに遠い――幼い頃ならば近かったのだが、最近になって引っ越してしまい、今では坂の上と下だ。 ……急ごう。帰りは走らずに、歩いて帰りたいから――啓は、自分に言い聞かせて、庭から家の中へと視線を転じた。 ――この家。東京の首都圏、その郊外に位置するこの一軒家。これは、誰のモノでもない家だった。それも、十年もの月日が経った今まで、あるいは今でも。自分のものでも、知り合いのものでも、誰か見知らぬ他人のものでもなければ、国のものでさえない。名義的には……などと、考えたこともなかったが。 ただ、それが十年もの間持続したのは、毎週の自分の働きのおかげ……というよりも、誰もそれを気にしていない、からだった。 (バカな話もあるもんだよな) 啓は、ぼそりと小さく心の中で呟いた。本当に、バカな話もあるものだ。十年の間この屋敷に、誰も住んでいないことを気にしていない、なんて。ただそれは、本当にただの偶然であるかもしれないし、あるいは超常的な何かが関係しているのかもしれない。……それこそ、本当にバカな話だが。 ただそのことは、自分にとっては幸いだった。この家は、数少ない彼との接点だったから。 (……彼、か) 胸がざわめく。それに呼応するように、庭の木々もざわめきに揺れた。 紅い斜陽。木々のざわめき。沈黙。なんでもない日常――それが、ただ襲いくる波となる。 (この気持ちはなんなんだ) 寂しさか、悲しみか、後悔か――あるいは、懺悔か。ふいに胸に訪れた痛みに、苦しくなる。いつからか抱き、今日までも抱き続けてきたその痛み。永く、永遠とも思えるほどに抱き続けてきたそれは、しかし未だに、どうしてなのか解ったことがない。ただ――痛いのだ。これがお前の感情なのだと、しきりに訴えてくる。ただ胸に手を当てることはせず、むしろその痛みに体を任せた。そちらのほうが早く楽になると、長年の経験から知っていた。 ゆっくりと、深呼吸をして、次いで溜息を吐いた。分かっている気はするのだ――ただ、口に出すことが出来ないだけで。……それは、随分と情けない話である気はするが。 (帰ろう) 踵を返す。そうだ、早く帰らなければならない……明日にだって、学校がある。普通の生活があるのだから。 「まるで、今が普通の生活ではないようか?」 唐突に――それも背後から――声が聞こえた。文字通り、飛び上がるようにして振り向きつつも、あまりにも驚愕している自分がいた。この家に、自分以外の声などあるはずがないと、そう思っていたから。その声が、自分の心の言葉に答えてきたなどというのならば、なおさら。それこそ空耳か、あるいは妖の類か。 わずかな希望。ありえるはずのない希望。誰かの姿がもしあればいいと、そう思っていた。 「あ――」 振り返り、縁側に立つ、その声の主の姿を捉えてから――また驚いた。 風に流れる黒の髪と、白皙の鼻梁……そして青い瞳。その瞳を一見するだけで、外国人なのだと分かる。ただ、啓が驚いたのは、もっと別のことだった――顔の、眉間から頬へと斜めに奔る、歪な傷。 黒いコートにその身を纏う男は、その不躾な視線に気付いているのか、それとも気付いていないのか判然としないままに、口を開く。紅の日差しが、男の美しい顔立ちを照らしていて――その線の細さも相まってか、それは妖しささえかもし出していた。 (妖しさ――いや、もっと違う何か。何だ、この違和感?) 「ここで、何をやっていた?」 「え――あ」 唐突に放たれたその言葉に、啓はただ視線を逸らす。何をやっていたか、と聞かれても、雑用とは応えにくい。むしろ家捜しの類に思われても不思議ではない。ただ……自分は、心のどこかで、それに安堵感と緊張感の両方を抱いていた。 「その……掃除、です」 「お前の家ではないのだろう?」 躊躇もなく告げる男に、顔を落とした。ああまずい……何か答えなければ、本当に家捜しになってしまう。そう心の中が警鐘を鳴らしていたが、逆にもう一つ、この状況を好ましく思っている声も、心の中にあった。そうか――これは幻想じゃなくて、現実みたいなんだ、だから。 「まあ、いい」 意外にも、男は追及しなかった。それに安堵しつつも、男の顔を見やる。本当にどうでもよかったのか、男の顔は、明後日のほうを向いていた。 その横顔は、美しかった。それも、人的、自然的なそれではない、まるで彫刻のそれ。この男は誰なのだろうか……と、ふいに名前を聞いていなかったことを思い出して、口を開こうとする、が。 「言っておく」 先に口を開いたのは、男の方だった――それも、有無を言わさぬ厳しさを纏って。 「この家に、これ以上関わるな」 ――男の言葉は、あまりにも唐突で、あまりにも意外なものだった。 この家には関わるな……この家とは、自分が今居るこの家のことなのだろうか。無論、それは当然そうなのだろうが……啓の心に、どうしてだか、その意味がすんなりと理解できなかった。 「どう、いう」 声が枯れる。痛いほどに。――理解できないのではない、理解したくないのだ。心のどこかで、そんな声が上がる。 男の表情は、ピクリとも動いていない。その瞳に映る光も、端正な顔立ちも、歪な傷跡も。 「二度は言わない。これは警告だ――もし破るのならば」 そうだ。空気だ。この男を最初に見たときに、感じた違和感。空気が違う――人とは、どこか根本的に。わずかだけ感じた違和感は、今やまるで剣山のように尖り、身を凍て尽くすほどに冷たい。男は、視線をこちらへと戻し、言葉を続ける。 「――命の保障はしない」 ごくん。啓の、唾を飲み込む音が、場違いなほどに大きく響く。意識が軋む、ような感触。とつ、とつ、という足音が近づく度に、意識が飛びそうになる。だが、それをするわけにはいかなかった。 男の表情は、何も変わっていない。だが、先ほどの言葉を吐くまでと、吐いた後では、空気の質そのものが違っていた。日常と今とをはっきり区別できるほどに。それは――そう、殺気。そう呼ばれているはずのもの。 その、今にも死にそうなその感覚は、男が部屋を出て、数分の間、ずっと続いていた。――そしてまだ、夕焼けは続いている。
そして、その帰り道。夕日の差す坂道をひとり、啓は登っていた。 片方の手には黒革の学生鞄を、もう片方の手は制服の上から胸を撫でながら、溜息を吐く。――本当に、何だったんだ、さっきのは。自分はただの何でもない学生だっていうのに、命の保障はない、なんて。 ふと顔を上げて、道路の角にあるカーブミラーを、真下から見上げた。黒い髪、黒い目、派手でもなければ大してハンサムでもない、普通の顔立ち。そんな、どこにでもいそうな男子高校生が、そこにいる。 ……そんな男子高校生が、あんな人間離れした美形の外国人に、「命の保障はない」、だ。本当にどうなっているのだろうか。最近の日本は本当に物騒なのだと、ニュースからではなく、目の前の現実にそう思った。 カーブミラーから顔を上げて、今度は、坂の途中に位置している公園へと視線を運んだ。『丘の上公園』……丘の上に位置しているから丘の上公園、というそのまんまなネーミング。が、街の上方に位置しているその公園からは、街を一望とまではいかないが、かなりの広範囲を見渡すことが出来る、老若男女、誰にでも人気のあるスポットだった。 自分もこの公園が好きだった。――そして、彼も――。 と。その公園の、町を一望できるフェンスからは少し離れた、ブランコの上。そこに、小柄な少年の姿があった。 (――え?) ……知っている。その顔は、知っている。だが、どこだ? どこで、その顔を知った? 分からなくて、分からないまま記憶を探って……ふと気付いた時には、少年の姿は、もうなかった。 (……見間違、え?) それでなくてもデジャヴとか、色々とある。――とりあえず、あの少年が誰だかは分からなかったが、『彼』でないことは確かだった。少なくとも髪は黒かった。違和感はあったが、それならば大して気にする必要はないだろう。 空を仰いだ。少年を思い出すとき、こうしてしまうクセがある。自分でもわかっているクセだが、無くそうとも思わなかった。それで何か厄介なことが起こったわけでもないのだから。 紅い空――紅い、空? ばっ、と時計を見やる。針は五時と、そして十三分。彼の家を出てから、というよりか、彼の家に着いてから三十分も経っていない。――そんなバカな。心の中で悪態をついてから、彼の家に着いてからやったことを、ひとつひとつ思い出してゆく。雑巾がけ、畳の掃除、花の入れ替え――とても、十分や二十分で出来るものではない。 背中に、ひやりとしたものが流れていくのが感じた。汗だ。 (……まるで映画か何かみたいじゃないか) 空を見上げる。その紅さは変わらずそこにあり、一向に薄れる様子はない――時計の針が止まったのか、と思ってじっと見たが、どうやら普通に動いている。それこそ、いつもどおりに。 はっと、顔を上げた。坂の上からの、小さな視線を感じて。 その視線を辿る先には、そう、先ほどの黒い髪の少年。そして、その黒い髪が彩る、そのあどけない笑顔――それは。 「俺の、顔――」 愕然と、啓は呟いていた。 それは、幼き日の自分の顔。黒い瞳、黒い髪、荷物の紐を解いたときに見つけた、そしてまた友にせがられ見せた、幼き日の自分。あどけなさを残すその幼い顔は、ゆっくりと微笑を描いて――。 そして少年は背を向けて、走り出した。 「待って!」 叫ぶ声を振り切るかのように、少年は坂を上りきり、姿も見えなくなってしまう。啓は、それを必死に追った。――幼き日の自分の面影、それはそう、あの少年と共に居たころのはずの自分。 勾配な坂で、息が切れる。だが、そんなことを気にする余裕もなかった。 「待っ……て!」 声を振り絞り、坂を上りきる、と。――そこには、少年ではない、少女の姿があった。思わず、見惚れてしまう……端正な顔立ち、黒い瞳、そしてポニーテールに纏められた、夕焼けと同じくらいに紅い髪。その華奢な身体を、動きやすそうな黒い服に包んでいる。そこには一片の乱れもなく、全てが調和して、そう、まるで本当に天使のような……。 「マスターの、命令」 がうん、という鈍い金属音のようなものが響いて、はっとした。そして今度は少女の可憐な風貌ではない、その両手に握る巨大な”ソレ”に目線が釘付けとなった。……一言で言うならば、そう――黒い、巨剣。少女のその可憐な姿とは、正に相反する、まるで死の具現のごとき黒と赤のコントラスト。それが金属的な光沢を以って、明確な死の宣告を告げていた。 「あ――」 声が漏れる。ただ知っていた――このイメージは、この痛みさえ伴う空気は、あの男と同質のもの。 「その命、頂きます」 まるで、鈴のような声。凛として、しかし美しく――明確に、言葉を刻む。 そして、その次の瞬間。少女は、その華奢な体からは信じられぬ速度で――しかも、その巨剣を背負って、だ――矢のごとく大地を駆けた。いや、あるいはそれよりも速い。気付くことすらもままならぬほどの、死を纏う疾走。 見えては、いた。これでも動体視力には自信がある――が、体が全く反応できない。それこそ、まるで刹那のごとき一瞬だ。高速で回転する物体を言い当てる、という程度の特技や自身など、微塵に打ち砕いてしまう。 それこそ、声も出ぬ一瞬か。しかしそこで、とある偶然が起きた――尻餅を、ついたのである。その巨剣を、大地すら切り裂いて切り上げる一閃は、顔があった位置を通り過ぎて空振りした。 「く、は――っ」 尻餅の衝撃と、音速の刃の風圧に、息が漏れる。しかし少女に、微塵の隙も動揺もないのか。上に切り上げた刃をそのままに、今度は高速で地面に叩きつけてくる! 今度は幸運ではない、ただ勘だけで、啓は地面を横転していた。アスファルトをも微塵に砕く一撃、その礫が身体を蹂躙するも、それでもあの一撃を喰らってしまうよりはマシだ。カッターシャツが破れ、汚れているが、そんなことも気にならない。気にすれば死んでしまう。 幸運ではない、といったが、啓当人にとっては、幸運に他ならなかった。ただ直感のままに動いたから、別の攻撃をされていたなら死んでいた。少女の動きを察知できたわけではないのだから。 息が出来ないほどに咳き込みながらも、それでも啓は少女を見た。 (死ねる、ものか――) 声には出ず、心に叫ぶ。そうだ、こんなところで死ぬわけにはいかない。何の力がなくとも、こんなところで死ぬわけにはいかない。ただ叫ぶ――何の力もなく、何の武器もなく。 だがそれでも、少女の動きは止まらない。アスファルトを破砕した刃を、今度は片腕だけで水平に振るう。あれほど重量のある刃を、軽々と片手で振り回すその膂力たるや、果たして本当に人間のそれなのか。その細い腕、細い肩のどこに、そんな怪力が秘められているのだ、と。風をも切り裂き、砂塵をも切り裂いて、少女の小柄な体が、巨剣を水平に振り回した。 座ったままの相手への低い一閃、というのは、非効率的に見えて効率的だ。座ったまま横への運動は簡単だが、前後への運動は難しく、時間もかかる。 そして啓は、後ろへと逃げなければならないというその一心で、座ったまま、限界まで筋肉を駆使して飛び上がった。今度も勘だけだ。どうやったのかまでは覚えていないが、とりあえず後ろへと飛び上がる。――といったところで、なんの解決策もないのだが。 背中を見せて逃げるのはダメだ。先ほどの少女の飛び込みからすれば、追いつくことなど造作も無いだろう。それに、先ほどの動きで筋肉が痙攣するように震えている。そしてこちらは一介の高校生、倒す、などというのはノーセンスだった。これはRPGの世界などではない。 「助け――」 そうして、結局思いついたのは、助けを求めるくらいのことだけ。だが、その声も途中に、また啓は尻餅をついた。ブォン、と風を切り裂く音が、高速で鼻先を掠めていく。しかも、先ほどの横薙ぎと、まったく同じ方向から 理屈は簡単、横へと薙いだその刃を、後ろ手で持ち替え(スイッチ)、円運動をそのままに一閃したのだ。ただし、後ろ手であの巨剣を、素早く持ち替えるなどというのは、人類規模の常識として考えられない――とは、いったところで。 (突然のあの脅し、醒めない夕焼け、経たない時間――もう、常識どころじゃない、か……) 汗が、頬を伝う。――今度もまた幸運。だが次こそは、もう避けられないと、心のどこかが確信していた。どうせまた、横への一撃だろう。もう身体はガタガタで、節々は痛み、力も入りそうにない。 生き残るためには――殺す、しかない。 (殺す?) 誰をだ? 決まっている、眼前の少女をだ。少女はもう、左手にある刃を持ち替えて、身体を反転させようとしている。今度は、足を全力で踏み込むつもりなのだろう。だが身体を一回転させる分、隙が出る――。 (殺す、だって?) 問いかける。誰かに対して。だが、帰ってくる言葉はひとつだけ――イキノコルタメニハ、コロスシカナイ。言葉を反芻していく。誰が? 決まっている、自分が。 思考はスローになり、動きは全て止まって見えた。そして、言葉が反芻されていく――イキノコルタメニハ。 眼前の少女は、もう止まって見えた。あの、反応さえ出来なかった少女の動きが。そして、言葉が反芻されていく――コロスシカナイ。 そして。あるいは笑い出しかねない、その反復思考の中。 視界はただ白く染まり、そして、世界は消えた。
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