あるところに、笑えないお姫さまがいました。 どんなに滑稽な芝居を見ても、どんなに素敵なお洋服を着ても、どんなに可愛い人形を抱いても、どんなに美味しい料理を食べても、にこりともせず、ただいつもぼんやりとどこか遠くを眺めていました。 年頃の姫がこれではいかん、このままでは良い婿に巡り会えない、と焦った王様は、国中にお触れを出しました。 お姫さまを笑わせた者をお姫さまの婿にする、と。 あちこちから男の人が集まってきて、お姫さまを笑わせようとしました。 大道芸の達人、売れっ子のコメディアン、有名ファッションデザイナー、三ツ星シェフ、隣国の素敵な王子様。 皆あれこれ手を尽くして、お姫さまを笑わせようとしました。 だけど、どんなに楽しいことや面白いこと、滑稽なこと、魅力的なこと、素敵なことにも、お姫さまは反応を示しませんでした。 ただいつも、窓からぼんやりと空や遠くの丘を眺めていました。 皆、一体どうしたらお姫さまが笑うのかわからず、ほとほと困り果てて、諦めて帰って行きました。 お姫さまは、お城を去っていく大勢の男の人を窓から眺めて、ぼんやりとしていました。
あるとき、笑わないお姫さまの話を聞いた旅人が、お城にやってきました。 王様は尋ねました。 「お前は姫を笑わせることのできる芸や特技や器量があるのか?」 旅人は答えました。 「いえ、何も芸などは持ち合わせておりません」 「ではどうやって姫を笑わせるというのだ?」 旅人は臆せず答えました。 「姫を泣かせます」 王様は笑いました。何を馬鹿なことを言っているのだこの男は。笑わせなければならないのに、泣かせてどうするというのだ。王様は旅人を追い返そうかとも思いました。しかし、もう他にお姫さまを笑わせることのできる人はいなかったので、彼をお姫さまのもとへ案内しました。
旅人はお姫さまの部屋で、お姫さまと話をしました。 何のことはない、お姫さまの名前や年齢だとか、王様や今は亡きお后様、つまりお姫さまの家族の話、お姫さまの好きな食べ物や趣味など、ごく普通の世間話をしました。 旅人は時折自分の話も交えながら、お姫さまと様々なおしゃべりをしました。 旅人は毎日お姫さまの部屋に通い、それを繰り返しました。 あるとき、旅人は見張りに向かって言いました。 「姫とふたりだけで話がしたいのですが」 見張りは拒否しましたが、お姫さまは、大丈夫、と見張りに外に出て行ってもらいました。 その話を聞き、心配になった王様は、旅人が帰ったあとお姫さまに尋ねました。 「旅人とふたりでどんな話をしたのだ?」 お姫さまは答えました。 「今日は、のどぼとけの話をしました」 「のどぼとけ?」 「はい、聖書にまつわるお話で、男性ののどぼとけのことを、アダムの林檎と言うそうなんです」 王様は怪訝な顔をしながら、 「お前はあいつと毎日そんなどうでも良い話をしているのか?そんな話をしていて楽しいのか?」 お姫さまは、いつものぼんやりとした表情ではなく、しっかりと王様を見つめて、 「ええ、とても楽しいです」 と答えました。
それから毎日、お姫さまと旅人はふたりで話をするようになりました。 悪人には見えないけれど、仮にも素性の知れない男、王様は心配になって、ある日こっそりお姫さまと旅人のいる部屋をのぞいてみました。 お姫さまと旅人は隣に座り合い、木製の小さなテーブルに向かって、紅茶を飲みながら何やら話しています。 「・・・チャイってのがあってさ、」 「あ、知ってる・・・。インド風紅茶みたいなの?」 「そうそう、ちょっとスパイス入ってるんだけど、ミルク入れるとまろやかになって美味いんだ」 「いいなあ、飲んでみたい・・・。わたし、こういうダージリンとか、オレンジペコとかしか知らないから。・・・今度、コックさんにお願いして、作ってもらおうかな」 「お薦めだよー」 王様は戸惑いました。 お姫さまの喋り方、振る舞い、穏やかな表情、全て普段王様の知っているお姫さまとは別人のようだったからです。 この男、もしや本当に姫を笑わせることができるのではないか? 王様はそのままじっと中の様子をうかがいました。 ふたりはしばらく他愛のない話をしていましたが、ふと、沈黙が訪れました。 お姫さまの表情が、どことなく暗くなっています。 どうした、早く笑わせないか。 王様のはやる気持ちをよそに、沈黙は続きました。お姫さまはもちろん、旅人も何も言いません。 すると、突然旅人が、お姫さまの頭をぽん、と叩きました。 王様は驚き、今にも部屋に押し入ってしまいそうになりました。旅人がお姫さまに何か良からぬことをするのではないかととっさに思ったからです。しかし、何やら様子が違います。 そのままふたりとも何も話さず、動かないのです。 お姫さまは頭の上に旅人の手のひらを乗せたまま、旅人はお姫さまの横顔を見つめたまま、動かないのです。 しばらくそのまま静寂は続きました。 まるで時間が止まってしまっているかのように、ふたりとも何もしようとしません。 「・・・・・・・・・あのね、」 お姫さまがその静寂を破りました。 「うん」 「あの、うまく、言えないんだけど、」 止まっていた時間をゆっくり取り戻すように、話し始めました。 「うん、いいよ。ゆっくりでいいから。ちょっとずつ、話してごらん」 旅人は手のひらでお姫さまの頭をぽんぽんと叩きました。 「・・・わたし、なんでわたし、笑えないのかなあ」 お姫さまはうつむいて、両手をひざの上でぎゅっと握り締めました。 「今まで、色んな人が来て、笑わせようとしてくれたんだけど、どうしてもダメで・・・なんだか笑えない自分が欠陥みたいで、皆がわたしに笑ってほしいって思えば思うほど、申し訳なくて、情けなくて、」 お姫さまの声は、震えていました。 「だけど、あなたは違った。わたしを笑わせようとはしなかった」 「うん、だけどユリに笑ってほしいとは思ってるよ」 お姫さまは顔を上げて、旅人を見つめました。 「ユリがどうして笑えないのか、ここ最近毎日ユリと話してきて、わかったような気がするんだ」 お姫さまはこわごわと小さな声で、教えて、と言いました。 「あのね、ユリは、泣かないから笑えないんじゃないかなって、思う」 「・・・泣かない?」 お姫さまは首を傾げて、じっと旅人の目を見つめて、次の言葉を待っています。 「・・・以前この国に寄ったとき、初めてユリを見たときから、思ってたんだ。なんだかぼんやりしてるなって」 「うん、よく、言われる・・・」 「どうして自分がぼんやりしてるのか、その理由、ほんとは自分で知ってるでしょ?」 「・・・知らないよ・・・?」 旅人はにこっと笑って、お姫さまの頭を両手で包み込んで、ごちんと額を合わせました。 「いた」 「ユリ、目を閉じて」 お姫さまは言われた通り、ゆっくりと目を閉じました。 「よーく見てごらん、自分のぼんやりの奥に、何か感情が隠れてないか?」 「ぼんやりの奥に・・・感情・・・?」 「そう。よーく、見つめてごらん。奥深く、深く、潜っていってごらん」 ふたりとも目を閉じて、額を合わせたまま、部屋は再び静寂に包まれました。 そのうちにお姫さまは、自分の耳元にあてがわれている旅人の手をそっと握ってきました。 「ユリ、手、震えてるね」 お姫さまは目を閉じてじっとしたまま、答えません。 「大丈夫、大丈夫だよ。僕がついてる」 旅人はお姫さまの手を握り返します。 「誰だって怖いよ。自分の気持ち、奥の方にしまいこんでた気持ちを直視するのは」 段々と震えが大きくなってきて、そのうち、肩も震わせ始めました。 「ユリがぼんやりしてたのは、感じないように、直視しないようにしてただけなんだよね。そういった気持ちを」 お姫さまの震えが、目に見えて大きくなってきました。 「そうやって、自分を守ってきたんだね。壊れてしまわないように」 旅人はお姫さまから額を離して、 「だけど、大丈夫。今なら、直視しても、怖くないよ。僕がいるから」 頭を優しく撫でて、 「言ってごらん。ユリの気持ち」 ついに溢れ出しました。 ユリの涙。 「・・・かなしくて、」 「うん」 「・・・・・・さびしくて、」 「うん」 ひとつひとつ、ことばを選ぶように、ゆっくりと、 「つらくて・・・・・・くるしくて」 「うん」 「さむくて・・・」 幼い子どものように、ぐずぐずと鼻をすすりながら、 「いつも怖くて・・ただただ、不安で」 ユリは目を開けて、旅人を真っ直ぐに見ました。 「サキ、」 「うん」 「痛い、」 もう、止まりませんでした。 「痛いよお、」 両手で顔を覆って、椅子から崩れ落ちるように床にへたりこんだユリを、サキはぎゅっと抱き締めました。 「よく、がんばったね」 頭をぽんぽんと叩いて、 「ちゃんと、自分の気持ち、逃げずに見れたね。偉いよ」 激しく嗚咽するユリに、サキはあやすように優しく語りかけました。 「自分のそういう気持ち、直視しちゃうと、壊れちゃうからね。自分を保てなくなっちゃって、どうなるかわからない。だからユリは、いつもぼんやりして、何も感じないようにしてたんだろ?かなしいも、さびしいも、つらいも、くるしいも、さむいも、怖いも、不安も、何もわからないように」 ユリはしゃくりあげながらも、何度もうなずきました。 「だけど、それだとね、楽しいも、嬉しいも、面白いも、感激も、幸せも、わからなくなっちゃうんだよ。ポジティブなものであろうがネガティブなものであろうが、心を動かすあらゆるできごとに対して何も思えなくなっちゃう。だから笑えなかったんだよ、きっと」 サキはユリの頬に手を当てて、そっと涙を拭いました。 「だけど、大丈夫。ひとりでいると直視するのは怖いけど、誰かがいれば、直視してしまっても怖くない。自分を保つことができるし、壊れそうになっても、戻ってこれる。ユリが笑えなかったのは、自分の感情を見つめて、表現する場所がなかったから。泣く場所や笑う場所がなかったから」 ユリは目をこすりながら、サキの顔を見上げました。 「いっぱい、泣けよ。そしたら笑えるよ」 サキはユリの背中を抱き寄せて、ユリはサキの胸に顔を押し当てて、大声で泣きました。 お姫さまの泣き声はお城中に響き、部屋の前には王様以外にも大勢の家来や執事が集まってきていました。 皆何事かと騒ぐ中で、王様は静かに言いました。 「今、姫が笑うための準備をしておる。そっとしておこう。そして、皆、次に姫に出会ったら、笑いかけようではないか」 王様は本当は知っていました。 お姫さまの孤独感。 母親もおらず、姫という立場上対等な友達もおらず、自分は公務で多忙な身。 姫を笑えなくさせていたのは自分自身だった。 親でありながら、姫が安心して泣いたり笑ったりする場所にすらなり得なかった。 王様は集まった家来達に持ち場に戻るように言い、自分はそのまま部屋の前で、お姫さまが泣き止むまでそのしゃくり声に耳を傾けていました。 聞かなければいけない、せめてそれくらいは、受け止めなくてはいけない、そう思っていました。
その後、旅人はお姫さまのいる国を去っていきました。 王様は旅人に深くお礼を言い、ぜひ姫の夫になってほしいと言いましたが、旅人は拒否しました。 「僕は旅人です。また、旅に出ます」 「しかし、あなたほど姫の気持ちを汲んで、姫の居場所になってくれる人はいないぞ」 王様の言葉に、旅人は首を振りました。 「いいえ、違います。お姫さまはもうこれで、泣いたり、笑ったり、怒ったりすねたり、感激したりできるようになりました。私はそのきっかけを作ったにすぎません。大丈夫ですよ、王様。感情を見つめて表現できるようになったお姫さまは、これから先きっと良い人に、お姫さまの居場所になれる人に巡り合えます」 そう言ってお城を去っていくサキを、ユリは笑顔で大きく手を振って見送りました。
数年後、ユリは優しくて誠実な男性と結婚しました。 サキは今でもユリの大切な友達として、1年に数回はお城に遊びに来ています。 ユリはその後、夫や子供、父親、そしてかけがえのない友達に囲まれて、毎日泣いたり笑ったり感動したり、安心感に顔をほころばせて幸せに暮らしました。
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