夜遅く家に帰ってきた。 かばんを投げ捨てて、どかっと座椅子に腰を下ろして、テレビをつけた。 フランス語なのかイタリア語なのかドイツ語なのかよくわからない外国語講座を聞きながら、煙草を手に取った。 もう、相手に気を遣ってベランダに逃げたりしなくてもいいのだ。俺は部屋の真ん中でぶはあと豪快に煙を吐いた。 そのまましばらくぼうっとしていた。
別に嫌いなわけじゃなかった。 ただ、愛しているわけでもなかった。 なのに関係をずるずると続けるのは、申し訳ないと思ったんだ。 だから、しょうがなかったんだ。 しょうがないじゃないか。 別れの言葉を言い捨てて、呆然とする彼女を尻目に逃げるように出てきてしまった。 あの子、俺のこと恨んでるだろうな。 振った方が恨まれるのは仕方ないことなのかも知れないけど。 でも、こればっかりは、どうしようもないじゃないか。 俺は別に、悪いことをしたわけじゃない。
考えにふけっていると、テレビの音の奥の方から、一瞬、叫び声のようなものが聞こえた気がした。 テレビは相変わらず外国語講座を続けている。 俺はテレビを消してみた。 しばらく耳を澄ますと、また、テレビの向こうから声が聞こえてくる。 発情期の猫のような、赤ちゃんの泣き声のような、幼い子供の叫び声のような、途切れ途切れのかすれた声。 俺は煙草を持ったままベランダに出てみた。 声は、隣の部屋からだった。女の声だ。 駄々をこねる子供のように、うわあ、わああ、ああ、と、だらしない大声で泣いている。時折、もうやだ、やだやだ、やだ、とも聞こえてきた。 俺は隣の部屋の住人に会ったこともなければ、見たこともなかった。女だったんだ。知らなかった。 きっとこの隣人も失恋したんだろう。 俺は煙草をくわえ直して、手すりにひじを置いた。 もうやだ、ばか、ああ、あああ、 隣の住人の声を聞きながら、なぜか俺はそこから動けなかった。 動いてはいけないような気がした。
あの子も、今頃こんな風に家で泣いてるんだろうか。 俺のこと罵りながら、泣いてるんだろうか。 そうだよな、振られたんだもんな。悲しいよな。辛いよな。 俺は愛してあげれないけど、もう傍に居てあげれないけど、せめて、最後に、その悲しみは受け止めてあげなきゃいけないよな。 夜空に向かって煙を吐いた。 そして隣の部屋から泣き声が聞こえなくなるまで、俺はそのままずっと立ち尽くしていた。
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