気分が悪い。 行き場のないイライラがたまっていて胃の辺りが気持ち悪い。 朝っぱらから親に就職のことで電話越しにうだうだと説教されたりとか、研究室の高価な機材を壊してしまったりとか、バイトで大失敗してクビになったりとか、彼女とささいなことで大ゲンカしてしまったりとか、どうしてこうも同じ日に嫌なことが重なるんだろう。 彼女と付き合い出してから辞めていた煙草を、さっき久しぶりに買ってしまった。彼女の不機嫌な顔が目に浮かぶ。身体どうなっても知らないよ、というすねたような声も聞こえてくる。いつもなら愛しいその表情も声も、今はただうっとうしい。 バスが来るまで一服しようと思ったけど、取り出そうとしたところでちょうどバスが来てしまった。 くそ、やっぱり邪魔されるのか、イライラが膨張するのを抑えつつ、バスに乗り込んだ。 バスは混んでいるわけではなかったけど、座席はほとんど埋まっていた。後ろの方に一つ空きを見つけて、どかっと座り込んだ。 やっと家に帰れる。長い一日だった。 バスを降りたら真っ先に煙草を吸おう。それからコンビニで酒でも買って帰ろう。飲んで一服したらもう今日は寝てしまおう。 だんだんオレンジ色に塗られていく見慣れた街を窓越しに睨んでいると、ふと、横から何か視線を感じた。 見ると、いつの間にか隣に小さい子供が座っている。 6歳か7歳くらいの、幼い女の子。淡いカナリヤ色のパーカーにふわふわしたスカート、ライオンのぬいぐるみの形をしたポシェットを肩に斜めに掛けて、僕と同じように外の景色を見上げていた。 周りに親らしき人は見当たらない。ひとりでバスに乗っているらしい。 そういえば、僕が初めてバスに乗ったのも、この子供くらいの歳だったな。 両親が大ゲンカをしていた日のことだ。8歳の僕は、普段の両親とは別人のような気迫に圧倒されて、怖くて、ひとりしくしく泣きながら家を出た。 それからしばらく歩いて家の近くにあったバス停まで来ると、ちょうどバスがそこに停まっていたのだ。僕はなんのためらいも持たずそのままバスに乗り込んだ。 それから隣町までずっと乗り続け、終点でやっと運転手が僕の存在に気付いた。幸い自宅の電話番号を言うことができたので、すっかり仲直りをした両親が迎えに来てくれて事なきを得た、そんな話だ。 まさかこの子も同じような事情なのだろうか。しかし、足をぷらぷらと楽しげに揺らして、外をじいっと見つめる大きな黒い目からは、そのような悲しみは感じられなかった。 しかしこの危ないご時世に小さい子供をひとりでバスに乗せるなんて、親の顔が見たいな。 ぼんやりとあれこれ思いをめぐらせたが、所詮は他人事、俺はすぐに思考を止めて、景色に目を向けた。 外はオレンジからだんだん薄紫に変わっていく。街灯や店の明かり、車のライトが流れていく。 嫌なことも全部、こんな風に流れていってしまえばいいのに・・・ 気付いたら俺はうつらうつらと頭を揺らしていた。
「ちょっと、」 声と同時に、とんとん、と肩を叩かれて、目が覚めた。 「お兄さん、終点だよ」 「・・・ん、」 目を開けて、声がした方を見上げると、バスの運転手が呆れたような顔で立っていた。 「あ、すいません・・・」 しまった、寝過ごしてしまったようだ。 まったく、今日はどうにも厄日だ。 慌てて立ち上がろうとすると、何か、体に重いものがのしかかっている感覚に気が付いた。 「ほら、妹さんも起こしてやって」 見ると、あの子供が俺の腕によりかかって眠っているのだ。 「え、あの、この子は・・・」 「早く降りてくれよ、次の便あるんだから」 運転手はそう言ってすたすたと行ってしまった。 とりあえずこのままでは身動きが取れないので、僕は女の子に声をかけて起こした。 女の子は細い声でうーんとうなりながら、まだ寝たいような、ぐずるような仕草で目をこすった。 まだ半分寝ぼけている女の子をけしかけて、一緒にバスを降りた。賃金は一緒に払ってやった。 まったく、なんで僕がこんなこと。 別に子ども嫌いとかではないけれど、どうして今日に限ってこんなめんどくさいことばっか起きるんだ。早く家に帰って寝てしまいたいのに。 僕はしゃがみこんで、女の子と目線を合わせてやった。 「お嬢ちゃん、おうちどこ?こっからひとりで帰れるの?ママは?」 女の子はまだ半分眠気でとろんとした、でもまっすぐな目で僕を見てきた。 僕はなぜだかどきっとした。 「えき」 「ん?」 「えきいくの」 「駅、か。何駅かわかる?」 女の子はきょとんとして首を傾げた。 ここから一番近い駅でいいのかな。 このままにしておくわけにもいかないし、僕は女の子の手を取って一緒に歩いて行った。 やれやれ、だ。 僕はため息をついた。 あー煙草吸いてぇ。 「ねえねえ、」 「ん」 出し抜けに女の子が話しかけてきた。 「知ってる?ためいきするとしあわせがにげるんだよ」 僕は一瞬彼女が何を話しているかわからなかった。 「お父さんゆってたもん」 女の子はじっと僕の顔を見上げている。 「・・・そっか」 僕はなぜか何もことばが浮かんでこなくて、曖昧に答えてしまった。 これ以上逃げてく幸せも持ち合わせてないけどなあ。 「だからね、さっちゃんね、ためいきしちゃったときはすうんだよ」 「吸う?」 「でちゃったしあわせ、すうの」 出て行ってしまったもの、そう簡単にもう一度吸い込めたら苦労はしないさ。 「そっか」 いかにも子どもらしい。 少しイラつくくらいに。 「だから、お兄ちゃんも、ためいきしたらすうんだよ?」 「そうだねぇ」 僕は苦笑いをした。 吸っても吸っても、入ってくるのは汚らしい煙だけだ。そして出て行くのは大切なものばかり。 子どもって、何も知らないって、しあわせだな。 大切なものは全部自分の手の中にあると思っている。 いつかなくなってしまう日が来るなんて、考えもせずに。 気が付いたら辺りはすっかり群青色で、東の方に黄色い半欠けの月が浮かんでいる。 そろそろ駅だ。 「この駅でいいの?」 僕は駅を指差しながら、女の子の方を見た。 女の子は暗がりに目を凝らして、叫んだ。 「お父さん!!」 そして、僕の手をぱっと離して、駆けていった。 「さち!」 女の子は、その向こうにいたサラリーマン風の男性のひざに飛び込んだ。 男性は女の子を抱きしめて、女の子はにこにこしながら僕の方を指差している。 近付くと、彼は深々と頭を下げて、 「本当にありがとうございます」 と言った。 「何とお礼を言ったらいいか・・・」 「いえ、そんな」 顔を上げた父親は、思ったよりも年配だったことに驚いた。疲れた顔をしているせいか、余計にそう見えるのかもしれない。失礼ながら、髪の毛も少し寂しい。 「・・・この子は、ちょっと目を離した隙にいなくなって、一人でバスに乗ったり、電車に乗ったりして遠いところへ行こうとするんですよ。その度に駅員さんや車掌さんに保護されるんですが」 「・・・はぁ」 「どこに行きたいのか聞いても、特別どこかに行きたいわけではないようで、かといって乗り物に乗りたいというわけでもないようで」 父親は語り始めた。 多少めんどくさい、と思ったが、不思議と、早く帰りたくて仕方ない、という気持ちは薄れていた。 むしろ、父親の話を、この子についての話を聞きたいとすら思った。 「この子は、あてもなく、どこか、遠いところを求めてるようなんです」 女の子は話の内容をわかっているのかいないのか、にこにこしながら父親の手を握っている。 「・・・そうですか」 あてもなく遠いところ。 僕だって求めてるさ。自分を苦しめるものから、全てから逃げてしまいたい。 だけど、こんな幼い子どもが、今あるものから逃れる必要はないじゃないか。 「・・・実は、去年、この子の母親と離婚しまして」 父親は女の子の頭を撫でながらそう言った。 「それからなんですよね、この子の放浪癖は」 僕は何もことばが出てこなかった。 「あ、すみません、こんな話」 「いえ、そんな」 この子は、 「本当にありがとうございました。あの、何かお礼がしたいのですが」 「そんな、いいです」 この子は、既に、失っていたのか。 大切なものを。 「でも、本当に助かりましたし、よければ連絡先を・・・」 すると突然、女の子が僕に歩み寄ってきて、手をぎゅっと握って、 「また会おうね」 にこっと笑って、そう言った。 僕も気が付いたらにこっと笑っていた。 「そうだね」 しゃがみこんで、女の子の頭を撫でた。 「また会おう、さっちゃん」
僕はお父さんと連絡先を交換して、ふたりと別れた。 日はとっぷりと暮れて、街灯りに埋もれて星がぱらぱら浮かんでいた。 さて、またバスに乗ろうか。いや、歩こう。家までは少し距離があるが、歩きたい気分だ。 僕はポケットから煙草を取り出した。一本抜き取って、口にくわえて、ライターを構えたところで、やめた。 どうせ吸うんなら、夜の空気を吸おう。 コンビニに寄って、酒の代わりに求人誌を買おう。 僕は携帯電話を取り出した。 彼女に、美幸に電話しよう。 大切なものは、しあわせはまだ手の中に残っている。 ふてくされてる場合じゃない。 逃げてる場合じゃない。 吸い込むんだ。 でちゃったしあわせは、同じしあわせは戻ってこないかもしれないけど、 別のしあわせもあるよ、さっちゃん。 遠いところに行かなくてもいいんだよ。 お父さんがいるよ。 僕だって、
電話越しの美幸は、笑っていた。 また会おうと、約束した。
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