人気のない女子トイレ――。 そう言われて誰もが思いつくのが旧校舎の女子トイレだろう。特に二階の奥にある女子トイレは、授業時間ならいざ知らず、放課後ならまず間違いなく誰も利用しない。 まだ外は十分明るかったけれど、それでもそんな人気のない所にはあんまり行きたくはない。グラウンドの喧騒が嫌に遠くの世界での出来事のように聞こえる。 「ねぇ、由香。一つ聞いていい?」 「何」 「どうして実験台が必要なのかな、と思って」 「それは――」 「だって、普通のおまじないなんでしょ?」 あたしは言った。それにしてはシチュエーションがおかしかった。 「うん・・・・。これから説明するつもりだったんだけど、交霊術なの。これ」 「コウレイジュツ?」 「そう。『デルモちゃん』はね、自分の体型を気に病んで自殺しちゃった女の子なの」 「自殺・・・・!?」 よっぽど気に入らなかったのに違いない。 「――でも心配しないで、彼女は優しい子だったの。二度と自分のような女の子が現れないようにって、体型で悩む女の子の願いを叶えてくれるようになったの」 「そんで『デルモちゃん』誕生ってわけ」 「うん」 由香の返事はあたしの質問には答えていない。第一、心配ないのなら自分がやればいいじゃない。 「ふうん・・・・。ま、いいわ」 あたしは、馬鹿らしいと、思った。どうして由香がこんな事に一生懸命になっているのか、分からない。 確かに、体型の事に必死になるのはよく分かる。スリムになりたい! なんて言う願いはみんな持ってるものだし。由香だけが例外、とはいかないだろう。 それにしても・・・・、と思うのはあたしのコンプレックスか。 あたしは意を決した。騙されたものと思ってやればいいか。 「分かったわ。その『デルモちゃん』とやらに会ってあげようじゃないの!」 「ありがとう、真奈美」 「いいって事」 それより――と、あたしは由香を促した。いつまでもこんな所にいる気はない。 「うん。・・・・じゃあ始めるね」 あたしはトイレの手洗いにある、古ぼけた鏡の正面に立たされた。背後には由香がいる。 鏡の端の部分から錆が侵食してきている。表面には汚れがこびりついていた。その汚れの周りに、青緑色をしたのカビが見えた。カビはあたしの顔とだぶる。 「『聞こえますか』」 何の前触れもなく、押し殺した由香の声が女子トイレに響いた。あたしはちょっとびっくりして、鏡の中で見え隠れする由香を睨んだ。 儀式が始まった。 「『聞こえますか、聞こえますか。届きますか、届きますか。・・・・デルモちゃん、もしも鏡の向こうにいるのなら、少女の前に姿を見せて下さい。少女の願いを叶えて下さい・・・・』」 由香の喋る言葉の意味が理解できたのはそこまでだった。その後は何やら怪しげな呪文が続いた。 あたしは由香があまりにその呪文をよどみなく唱える事に驚くと同時に、実験台になると言ってしまった事をなんとなく後悔した。 「『・・・・ロト』」 呪文は唐突に終わった。 由香に気付かれない様に唾を飲み込む。握った拳が汗で湿った。何も起きるはずがない。いつの間にか、あたしは心の中でその言葉を繰り返していた。 鏡に変化はない。あるわけがない・・・・。 「見て」 由香の声が聞こえた。何だろう、この奇妙な感覚は? それは嫌悪感だった。不快感でもあった。そしてそのどちらでもあった。あたしは目を逸らそうとした。でもできなかった。文字通り、あたしの視線は鏡に釘付けになっていた。それなら――と、あたしは瞼を閉じようとする。でも、それも叶わなかった。何故なら、瞼を閉じても鏡がそこにあったからだ。つまり、シャットアウトする事もできなかった。 鳥肌が立ってくるのが自分でも分かった。オブラートに包んだかの様な嘔吐感が、胃をじわじわと押し上げる。そしてその間も、あたしは鏡から目を逸らす事はできなかった。 突然、鏡がグニャリと歪んだ。あたしは声を上げそうになった。目の奥が熱い。涙が滲んだ。 歪んだのは鏡に映る映像だった。歪んで、歪んで、渦を作る。その渦の中心から、黒い物が段々と大きく広がっていく。 それは人の顔だった。鏡に、女性の首から上の顔が映っていた。黒いと思ったのはその髪の毛で、顔のほぼ全体を覆っていた。かろうじて分かるのは鼻の先端と、その下にある白濁した青い唇だけだった。髪の毛が邪魔で、その奥にある双眸までは覗う事はできない。でも、あたしははっきりとその存在を確信する事ができた。髪の毛の向こうで、爛々とした光を湛え、あたしを見ている目・・・・! これが『デルモちゃん』なの?! それは正視に耐え兼ねない、あまりにネガティブな雰囲気をかもし出していた。 ど、どうすればいいの・・・・! 『・・・・これで契約成立ね』 「!?」 不意に目の前がグラッと揺さぶられた。あっと思った時はもう遅かった。立っていられなくなり、あたしは頭を抱えて手洗いのタブに手をついた。 ――駄目だ。 言葉の意味を理解する余裕はなかった。目を開けていられなくなり、あたしは喘いだ。耳の奥がグツグツと煮えたぎっている様な気がする。吐き気が、ほとんどどうしようもないところまできていた。 頭上で何かが動く気配がした。鏡の中から抜け出てくる・・・・? そこまでだった。あたしの精神はそこで糸が切れたようにプツッと裁断され、後には闇が残った。 「真奈美・・・・っ!!」 最後に由香の声を聞いたような気がした。
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