昭和五十二年の秋、新宿歌舞伎町の居酒屋のバイトが決まった。夏休みに地元名古屋に帰って羽根をのばしてきて小遣いを使い果たしてきた。そこで大学の授業が終わってから夕方から居酒屋で働くようになった。新宿駅東口を出てコマ劇場に向かうと繁華街の入口の左側の高いビルの7階に店がある。同じような男子大学生が五、六人働いている。なんと東大生もいる。そろいのエプロンをして、客の注文を聞き、料理や酒を運ぶという単純労働だ。早い時間には、ビルの下の信号の前でビラまきだ。歩行者の動きにあわせて相手の手にチラシを握らせるには、タイミングをはかる必要がある。
バイトも慣れたある日のことだった。週末ということもあり、店は混んでいた。エレベーターのドアが空き、十人ほどの男女のかたまりが入ってきた。 「座敷は空いているか?」 店長がキッチンの中から聞いてきた。 「さっき、団体さんが帰りました」 「そっか、おまえにまかせたぞ」 カウンター席の客に運ばなければならないものがあるのに、と思いながらも笑顔で答えた。 「まっかせてください」 カウンターに座っている若いカップルに肉じゃがを届けながら、入口にたまっているグループに声をかけた。 「奥の座敷にどうぞ、すぐ用意します」 見ると自分とあまり変わらない学生のようだった。大学のサークルか何かだろう、男五女五の割合だった。 「ほっけと、ホッピー追加ね」 カップルの男のほうが言った。 すぐに座敷を片付けにいくはずだったが、キッチンに注文を伝えに行かなければならなくなった。 「ハイ、了解」 伝票に書き込むと小走りでキッチンへ。 「今日、ほっけは、もう終わりだぞ。客にそういってこい」 厨房の調理バイトの古株がぶっきらぼうに言った。 「えっ」 取って返して伝えに行く。 「じゃあ、何にしようか」 二人してメニューを探し出した。 その時だった店長の怒声が……。 「おい、この座敷の担当誰だ」 カップルをほおっておいて座敷に駆けつける。 テーブルの上に前の客の食器やグラス、残飯が山積みになっている。若い男女たちは立ったままだった。それを黙って店長が見ていた。店長やってくれればいいのにと思いながらテーブルにたどりついた。
「ちゃっと、まわししますから」
あわてていたこともあって、頭の中の標準語モードのスイッチが外れていた。 標準語に切り換えると「すぐに、準備いたします」の意味である。
一瞬、そこにいる全員の目が点になった。 「マワシって」 「チャット?」(この時代には、少し早かった。インターネットは、まだない) 「何人? 日本語?」 それを聞いていると俺の手が止まってしまった。すかさず店長の怒声二弾目。 「馬鹿、早くかたせろ」 「誰を勝たせるんだよ」 「ここは、東京の店か」 と意地の悪い若者の言葉がとんだ。 「おまえのせいだぞ!」 店長が八つ当たりしてきた。 店長は怒って真っ赤になり、俺は恥かしさで真っ赤になり、二人のゆでだこが食器を片付けていた。 「このテーブルで十人座れないんじゃないの?」 「これじゃあ、ちょっときついよね」 若者が訴え始めた。 「おい、おまえ何としろよ」 店長が押し付けてきた。威張るだけで頭からっぽなんだから。あっちのテーブルこっちに持ってくるだけのことなのに。
「かんこうします」
言ってからしまったと思った。 「観光? 」 「官公庁?」 目が点の第二弾。
「かんこう」とは、ちゃんと「勘考」という漢字もあって辞書にも載っているのだが、どういうわけだか名古屋でしか使わない。よく考えるという重々しい言葉なのだ。でも、そんな重い言葉もここでは場違いだった。ちなみに「勘考場」というと便所のことだったりする。便器にまたがってよく考えるのが勤勉で勉強家の名古屋人なのだ。
「あなた、名古屋出身?」 若者のグループの中の一人の女の子が話しかけてきた。 「ハイ、昭和区です」 「あら、私は、隣の瑞穂区よ。懐かしい言葉を聞いたわ」 ユーミンのように黒くて長い髪をしていて、切れ長の瞳が涼しげだった。ちょうどそのとき店の中に有線でユーミンこと荒井由美の「卒業写真」が流れてきた。その曲を聞いて、つい大胆になった。 「高校どこですか」 「え!? ……」 「早くしないか」 店長の怒声第三弾が発せられて、彼女の答えは立ち消えた。 もじもじしながらテーブルの上を雑巾でふいていた。 「おまたせしました。注文どうぞ」 東大生のバイトがやってきて注文を聞いてくれた。 「生ビールいくつ? ジンライム、ジントニック、串かつ? 食べ物あとだよ」 幹事役の男子学生が、注文をまとめていた。あっちこっちから注文が飛び交っていた。こういうときに東大生の記憶力は役立つ。彼は注文を聞き落としたことが一度もなかった。さすが東大生と、店でも評判だ。あるとき休み時間に聞いたら、将来は高級官僚になるのが夢らしい。俺の夢って、いったい何?
怒涛の居酒屋ゴールデンタイムが終わると店は静けさを取り戻し始めた。そろそろ終電の時間だった。学生グループの嬌声もトーンダウンして、やがてお開きになるところだった。幹事役の男子学生が暗算で一人分の金額を割り出していた。 「女の子はお酒あんまり飲んでいないから千円安くていいよ。清水は人より飲んで食ったから千円多く払えよ」 「何いってんだ川崎のほうが食ってるぞ」 精算時にどこでも見られる光景だった。 全員の金を集めた幹事役が一足先にレジに向かった。俺は座敷に片付けにいった。偶然、例の黒髪の女の子が一人だけ残っていた。頬が紅く染まっていた。目が、色っぽくとろんとしている。 「飲みすぎたみたい。えらいわ」 「お水持ってきましょうか」 「水なんて、とろっくさ。これから飲みなおし! 朝まで飲んだるわ。あんたも、いっしょに、いこみゃ〜」 「いえ、まだ仕事が……」 「え〜て、え〜て、いこみゃ〜」 そこへ店長が現れた。 「さっきから、みゃ〜みゃ〜言ってるのは猫か? あ!? お客さんでしたかスツレイしやした」 店長は茨木の出身だった。
「今度、ひとりで店に来るわね。また名古屋の言葉を聞かせてちょうだいね」 潤んだ瞳に見つめられてしまった。 今夜のバイトは忙しかったが、有意義だった、と日記には書いておこうと思った。
仕事が終わった後で店長に東大生と二人が呼ばれた。 「おまえらローテンションが変わったから明日から来なくていいぞ」 「ええっ、首ですか」 「本部が学生バイトを取りすぎて余っているんだ。じゃあ、ごくろうさん」 東大生は黙って退室した。さすが将来の高級官僚、シモジモの店長風情を相手にするのも時間がもったいないとばかりに出ていった。こっちは、さっきのユーミン似の彼女のことが気になって仕方なかった。
次の日からしばらくの間、彼女が現れないか、店の前をうろうろしたが、ついに再会することはなかった。歌舞伎町には、ユーミンのルージュの伝言が流れていた。 おしみゃあ
*注意=たぶん新宿の居酒屋には、ホッピーなかったと思います。中目黒の大衆酒場で最初にホッピーを飲みました。明大前の店にもあったはず。
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