「恐るべくは横谷佳彦…『抗う者は眼前から消えろ!』 艶やかな妖牙は、容赦なき攻撃性を早くも見せる。」
市制施行後初となる“出直し”漁野市長選で当選したのは、予想に大きく反して横谷佳彦だった…その衝撃は、漁野市内にとどまらず高知県内、いや。四国地方から全国へと、大きな衝撃として駆け抜けていった。どこの誰しもが、泡沫候補扱いも同然の横谷など当選すると予想するのはよほどの趣味でもない限りありえない。 ここは高知市のセンター街、そびえるは高知県庁…知事室では、今日も職務に忙しい県知事が1人だけ、つかの間をくつろいでいた。 「…失礼します。知事、お時間です」 県知事は軽く頷いて、机の上に新聞を放った…その新聞の記事において、しっかりと横谷の当選が報道されていた。そのまま、知事室を出て今日も職務に忙しく駆け回る日が幕開ける。しかし、新聞を読んでいたときの県知事の顔は誰にもわかるまい…顔つきは、誰も寄せ付けないほどにこわばっていた。 (どうしたものか…議会を全面的に敵にまわしてしまうぞ) 県知事には、漁野市の今後が見えないでいた…横谷新市政は、果たして漁野市をどう舵取るのだろうか?…不安が尽きない。県知事は、あの異例の事態を知らないはずもない。しかし、あまりにも無気味すぎる静けさのもとで当選証書の授与が成されたということである。
そして、その次の日…ここは漁野市役所本庁舎。平静を装ってはいるものの、市職員の面持ちは総じて暗いオーラを放っていた。戦々恐々とした現場は、市議会事務局でも全く変わらない。 「…おい、どうしたんだよ」 そこに桑島が現れる…この日は、市長の施政方針演説も兼ねた臨時議会の初日である。慌てようは、桑島にまで余波が飛ぶ。 「桑島さん!」 いきなり職員の女が1人、桑島の口をふさいだ。 「苦しいだろ!」 ふさがれた口で懸命に訴える桑島…いったい、なにがどうなっているのか。 「噂ですよ…桑島さんが横谷市長に票を入れた、って!」 桑島が横谷に票を入れる?…何を馬鹿なことを言っているのか。 「はぁ?…誰だよ、そんな馬鹿な噂振りまいてやがんのは。許さねぇ!」 濡れ衣を被せられたまま、黙っている桑島ではない…それは、横田寿彦への支持を懸命に訴えた原をはじめ、多くの漁野市議会議員らが目を向けていた。1人しかいなくなった共産党の議員は、言わずもがな米田幹雄を支持していた。だとすると、残るは桑島… 「横谷へ票を流したのは誰だ?」 と考えると、そう考えてしまうのは短絡だがありがちだ。まして漁野市のような小規模の市だと、どうにも投票行動への粗探しが多かったり、地縁や血縁を持ち出したり変なところで人情を持ち出したりするなど、特異なところもある。だが、神に誓ってもいい…桑島は横谷に票を入れていない。財政赤字対策が必要な今、無用な混乱は避けなければならない。 「それよか、どうすんだよ。議会!」 「…台本は要らない、と言われました」 横谷のこと、それは想定内だ。だが、問題はそこではあるまい。 「職員にも大胆なリストラ、って噂が…」 「採用試験も中止するかもしれない、って!」 リストラ?…この時期になって採用試験の中止?…まさか、何を言い出すのか。いや、横谷なら言いかねない。 「悪いな、議場に行ってくる。あ、ついでに…俺の分の台本も要らねぇぜ。そんなのなくても、俺の言葉で言うからさ」 そう言って桑島は、事務局室をそそくさと出る。いわば権力欲の塊も同然で、敵味方の区別しかない横谷なら簡単にできることだ。ここまで盛り上がれる心理戦は、漁野市の規模ではまずそんなにあることではない。ある意味で、桑島にとってはおあつらえ向きの戦場になったといったところか。
議場にはまだ、誰もいない…そんなあまりにも静かな場所に1人の男が入ってくる。そう、桑島だ。その桑島だが、登庁前に深江友璃子から聞かされた言葉をふと思い出していた。 「横谷さんの選挙戦のさなか、ゴソゴソと怪しい人がいたという情報がありました」 桑島には目星がついている…もちろん、それは高知県警本部の公安だ。だが、おかしいとは思わずにいられない…なぜ、可能性0の泡沫候補にすぎない横谷なのか。共産党系の候補たる米田のほうが、まだマークリストとして辻褄が合う。わからなかった…どうやら、そのゴソゴソと動いていた公安の輩は、上司の命令を無視して横谷をマークしていたのかもしれない。だが、桑島の頭内は堂々巡りでどうにもならなくなる…そんな複雑な心境で席に座り、自らの質問する内容をまとめたメモをじっくりと読み直している。何十分経っただろうか、ようやく別の議員が議場に姿を現してきた。すると、その議員はいきなり桑島に向かって走り出し、胸倉をグッと両手でつかんだ。 「あんた、いったいなに考えてんのよ!」 その怒り心頭の議員は、完全に血が上って思考することさえままならないようだ。 「…苦しいっつうの」 「あんたが横谷に票を入れたのは明白なんだからね!」 「…証拠は?証拠はあんのかよ」 桑島が横谷に票を入れた?…そんなことは断じてない。それに、証拠などつかめるはずがないはずだ。桑島は言葉を続ける。 「…それか?見せろよ」 「ふん、白状する気になったのね!」 そう言って、乱暴に渡された…桑島は、それを見て思わず顔を緩めた。やはり、偽物だ。 「…議員のくせに、本物と偽物の区別もできねぇのかよ。よく読んでみろよ…ありえねぇルートだぜ」 市選管が横流し…そんなこと、できるはずがない。もし本当なら、公職選挙法違反の汚職事件にまで発展する。しかし、事前に桑島は市選管に情報屋を放って情報収集をした結果、そのような痕跡はなに1つなかった。現世にはダフ屋など、功績を焦って隙を見せる政治家たちに偽の情報を流してさも本物のようにアピールして信じ込ませ、一気に奈落の底へ落とそうとする悪どい連中が闇社会には数多くいる。彼らにとって、漁野市の現状はまさにそれだ…桑島はさらに言葉を続ける。 「こんなB級の罠で俺を落とせるかよ。こんなのしてる暇があったら、さっさと横谷の対策でも練ってろよ」 冷たく言い放つ桑島に、そそくさとその場を去るほか道はなかった…各々、指定の席に座る。時間が経つのは早い…次々と席は埋まっていく。もはや議会は、横谷への臨戦態勢を整えていたのである。
一方、ここは記者クラブ…もちろん、新聞業界に新規参入という形で殴りこんでいるにすぎない日本新聞に居場所などあるはずもない。大手の週刊誌や写真週刊誌、タブロイド誌でさえも入ることをうかつに許されない、大手新聞社の談合の縮図たる場所ゆえに仕方がなかった。横谷新市政は、議会は全員が敵…四面楚歌ともいうべき状況で、また桑島の動向も気になる深江は、ただおろおろと市役所内をうろつくほかなかった。するとその時、1人の男が深江の前に立ちはだかった。 「…お嬢さん、いい手があるぜ」 微笑を浮かべるその男は、深江の手を強引にとって階段を駆け上がっていく。快晴というわけでもないのに、また室内なのに目深にサングラスをかけている…誰がどう見ても、怪しげな風にしか見えない。 「こういう場合、君みたいなのは敵の心臓を一気にえぐる作戦でいかないとな」 そう言って、謎の男に連れられるがまま深江は議場の前に現れた。いや、正確には傍聴席の入口に来ていた。 「…健闘を祈るよ。記事を楽しみにしている」 そう言って、男はその場を去っていく。記事?…自分が新聞記者だと気付いている、その不気味さに深江は若干の悪寒を感じていた。 「…どうされました?傍聴ですか?」 事務局の女性職員に声をかけられ、やっと正気を取り戻した深江は頷いて、傍聴券を手にして議場に入っていく。もちろん、そんな深江の姿を桑島は見向きもしないで、壇上をじっと見ながら時を待っていた。そうこうしているうちに、議長をはじめ事務局長らも壇上近くの席に座り、いよいよ臨戦態勢は整った…議会の様子は、今までとはまるで違う。横谷佳彦という、得体の知れない怪物[モンスター]のごとき男があの壇上に現れるのだと思うと、各々に去来するものはただ1つ…それはもう、敵意とか憎悪とかの類しかなくなる。しかし、時間は待ってはくれない…議場の開場まで、あとわずか。
会場の時間を見計らい、横谷が現れた…そして、手にノートを1冊抱えて無言で席に座る。そのときの議員らに張り詰めた空気は、市制施行後50年以上の歴史では考えられないようなものによる支配がなされていたのである。それもそのはず、横谷が放つオーラは常人の域ではない。彼の政策は、ことごとく岡村前市政の否定を通り越して市制施行後50年以上の歴史…いや、それどころか長年培ってきた土壌をもいとも簡単に掘り出し、そして無情にも破壊する存在にしか見えない。まるで殺人鬼を相手にするような目つきで、横谷をグッと睨む議員も少なくはない。だが、1つの懸念は消えた…現れた瞬間からの野次である。日本の議会には、国会・地方議会の如何によらず野次は悪い意味も含めて名物である。しかし、奇妙なまでに野次がない…不気味な空気の1つがそこにあった。 (何を言いやがる…) 桑島もグッと壇上を見つめながら、横谷の所信表明演説のときを待っていた。 「ただいまより、臨時議会を開会いたします」 議長の選出はもめごとなく早々に決まり、いよいよ新議長の第一声が議場に響く。 「それでは市長の所信表明演説をお願い致します。市長、横谷佳彦君」 議長に呼ばれるや、不敵な笑みを消さないままノート1冊を持って壇上に上がる横谷…そして、ノートをゆっくりと開いてマイクを整えた横谷は、ついに謎めいたオーラを紐解くが如く演説を始めていった。 「多大なる約57000人の市民の皆様の民意をもって、この議場に登壇がかないました。ご紹介に預りました、横谷佳彦です…」 はじめは実に淡々としたものだが、最初の言葉からすでに誰よりも怒りをためていた男が1人…桑島だ。傍聴席に座っていた深江にも、すぐさま桑島の心境変化が目に見えてわかるほどだ。 (何が民意だ…テメェの操作だろうが!) 構うことなく、横谷は演説を続ける。 「選挙戦におきまして、他の2候補とは違って正々堂々と遵法精神に則って1週間だけの選挙戦で勝利を得た私ではありますが、かく言う私はここ最近特に思うことなんですが、地方再生などと声高に叫ばれる風潮に違和感を禁じえません」 すると、野次が少しずつあがってきた。それもそのはず、なぜ漁野市長になったのかということを詰問されても不思議ではない発言だからだ。 「もともと東京とそれ以外で区別されても宜しいものですか?…私は、他の誰よりも日本というこの国を愛しております。そして、愛するがゆえに憂いております。残念ながら、その憂いは議員には届かないのが現実であり真実ではありませんか。貴方がたも含めて、私利私欲のテメェの都合で動いているだけでしょう。マスターベーションに浸りたいだけでしょう…所詮はそういう連中だというのは、もうネットを通じて知らない者たちはいません。自称保守などという慮外者集団が支配する地だからこそ、この漁野市が抱える財政赤字とやらは肥大化したのではないかと思わずにはいられません。しかし私は違う…正真正銘の保守主義者こそ、私なのです。そして、私には先見できる素晴らしい能力を持っております…私が任期を全うしたとき、漁野市は国内のみならず海外からも注目され、財政赤字など微塵もなくなり、負の歴史も遺産も全て消え去り、世界各国からモデルとして羨ましがられる自治体へと変貌することでしょう。そのための政策をここに1つずつ、箇条書き方式で述べてまいります…」 すると、ノートを1枚めくって深呼吸を置くかのようなインターバルがさらなる張り詰めた空気を演出する。 「まず、資本主義は限界をきたしております。そのため、この漁野市は資本主義を超えねば事態はより悪化するのみ…資本主義が崩壊した先を見据えられる者こそ、政治家としての資質であるというのが私の信念です。そして、お金だけ使わず置いておくと増えていく。しかし万物は例外なく、放っておけば減っていく…こんなことも赦される道理がない。お金も置いていては価値を減らすものにして、多くのお金を市中に撒いて流通の活性化につなげようではありませんか。そのために統一通貨を市内において使用を停止し、新たなる市内限定の地域通貨の開発と流通を約束します。そして、生きていくためには衣食住といいますが私は住宅を各自・各世帯に須く保障いたします…そのため、市民1人あたりに2500万円を1人残らず漏らすことなく補助いたします。そして、賃貸不動産業の早期業務停止を通達して全ての土地を個人の分譲地とします。そして、市長といえばずっと市長室にこもることが是であるかに捉えられておりますが、その概念にも私はとらわれない…市内をくまなく見たいとは思いながらも、私にはそんな時間も赦されない。おわかりの方は少ないかと思いますが、私は東京の奥に当たる高尾山地の一角において農場を経営しているものです。数多の従事者を抱え、農場を留守にすることは赦されない…それゆえ、市長室の分室を農場内に設置してもらうことを平にご容赦願いたい」 このあたりになると、深江ですらしっかりと聞かないと聞き取れないほどに野次がすさまじいものになっていったのは言うまでもない話だろう。こうなるともう収拾がつかない…“総野党”状態をまざまざと示す、横谷新市政はいつ崩壊してもおかしくはない。演説は野次の嵐が吹き荒れたまま、終わっていった…もはや最後のほうは、誰もが聞いていなかったろうが1人だけさらなる怒りの念を内に秘めた男がいる。いわずもがな、桑島だ… 「横谷市政の息の根を必ず止める」 横谷にそう断言した以上、後戻りは赦されないばかりか、演説を聞いてその思いはさらなる確信を固めた。 (議案に全て賛成しろ、だと?…ナメてんじゃねぇぞ!) そう、横谷が一歩間違えば暴言なんて領域では済まされない言葉を大いに乱れ飛ぶ野次のさなかに発言したことを、桑島は決して忘れていなかった。その横谷は、底辺政党の1つにして謎の政治勢力『黎明党』の大幹部…そんなヤツが、そんな頭がさも狂ったかのような発言の数々を堂々と議場でのたまう。こんなことが赦されるのか?…しかし、傍聴席の一角には目頭が赤くなっている若い女性の集団がいた。各々にハンカチを顔にあて、懸命に涙をふき取るものもいる。 (感動してるのかな…?) 深江はいぶかしげに、その女性の集団をじっと見ていた。不思議でならない…桑島が怒り狂いそうな感覚にいるというのに、なぜ彼女らだけは感動しているのか?…政界では、旧い概念がどうだからとはいえポッと新しい概念で挑んでよいというほど単純な場ではない。 「ありがとうございました」 議長がそういうやいなや、このあとさらに衝撃が議員たちに走る。 「早速ながら、市長室分室の新設を明記した組織条例の改正案が市長より提出されました旨、報告いたします。つきましては、この本会議場にてただちに採決を執り行います」 漁野市の市議会運営条例によると、議員側から出される条例や規則などは委員会経由を原則としているが、市長から出されたものや緊急性を要する条例案は特にそうであるが、本会議場での採決が優先される。さすがに横谷、政策は有言実行だということなのか…しかし、東京で生まれ育った男がなぜ高知に来たのか。桑島のみならず、全員がそう思っていたはず…深江とて、それは例外ではない。そんなさなか、市長室の分室を新設する旨の市組織条例改正案の質疑応答が始まる…横谷は東京の高尾山系に農場を持っており、自らがそこのオーナーでもあることから片時でもおろそかにすることができないという。それでも、彼の口から漁野市という土地に対する愛情その他、似たような表現の言葉は聞かれなかった…そこを徹底的に市議会議員たちが突いていくも、横谷にはびくともせずただ自論をもって返されるのみ。 (膠着状態…いや、押されているかも?)
採決をとるに当たり、横谷はすっくと立ち上がって壇上に立った。 「議員の皆様…貴方たちに、一言だけ言い忘れました」 いったい、なんだというのか?…すると、驚くべき発言が横谷の口からなされた。 「僕はですね…超能力者なんですよ」 その言葉に、議員はもちろん傍聴席さえもとある一角をのぞいて一瞬にして沈黙と恐怖が走った。 「驚くのも無理はありませんか…でも、本当のことなんです。子供の頃から、僕には何でもできることがわかったんです。いろいろできますよ…そして、一番自信のある能力があるんです。それは…透視。だから、貴方たちが賛成か反対か…どちらに入れるのか、すぐわかってしまうんですよ」 この期に及んで、いったい何を言っているのか?…透視など、普通はできるはずがない。 「ハッタリかましてんじゃねぇぞー!」 「…ふふふふふ、ハッタリとは笑止千万。本当にありますよ…ほら、貴方が今持っているのは白票(=反対)ですよね?」 桑島を除く、元議長・原ほかベテラン議員らの怒号や罵声もものともせず、横谷は公然と言ってのけた。その横谷の無表情にも見える微笑を浮かべながら答える姿に、熱狂しかけている一部の若い女性の集団を除いて深江は強烈な悪寒を感じていた。 (何かが違う…いや、違うなんて次元じゃない。まるで別世界にいる人みたい、妙な感覚…なんなの?) 妙な感覚というのは、深江なりにまだ抑えた表現だ。深江だけじゃない…その感覚は桑島でさえ、全く同じものだった。 (こいつ、理想にばっかり目をやられて原理主義者に転落してやがる…ヤツ自身、まだそれに気付いちゃいないのが幸運なのか。いや、今のままじゃ最悪のシナリオに動いていくほか道がない) 桑島のほかにも、議員たちは各位が完全に思惑を合わせていた。“赤字再建団体”転落を公約に掲げていることを知っている桑島の場合、彼らとは答えに至る経緯は違えど一入にその思いを凝縮させている。 (認められるか、お前なんぞ!…何を出そうが、否決させてやる!) こうして、横谷の身勝手な都合という空気に支配されたまま市長室の分室を彼が経営しているとされる高尾山の一角にある農場に置くための市組織条例改正案の採決が始まった。しかし、横谷は正面を向けて目を瞑ったまま…しかも、否決の空気に支配されているにもかかわらず、余裕とも取れる微笑を浮かべたままだ。次々と埋まっていく白票…ここまで、誰1人として青票(=賛成)を投じた議員はいない。そして最後に議長が、この男の名を呼んだ。 「…桑島庸介君」 すっくと立ち上がり、そして歩を地に足つけながら壇上近くにある票決の地へ向かう。その表情は顔に表れないまでも、横谷を見るやいなやグッと睨みながら、何食わぬ顔で白票を投じた。もはや、見る必要もないほどの歴然たる結果…賛成0、反対17。 「開票の結果、賛成0…反対17。よって、本案は全会一致で否決されました」 しかし、横谷はさらなる微笑を薄気味悪く浮かべたままだ。 「ふふふふふ、暴挙に躊躇なく打って出るとは…貴方たちは、実に愚かな人種だ。跡形もなく滅び去ってもらわねば、この漁野市は生き残れないということをまた1つ証明してしまいましたね」 さらに横谷は話を続ける。 「賛成に誰も票を入れないことぐらい、僕が気付かないわけがないでしょう…先ほど言ったはずですよ、僕は透視ができると。しかし、施政方針演説のときに忠告したはずです…僕が出す提案は、漁野市が日本国などという狭い領域に留まらず世界一の自治体として誇れる姿に変貌するために必要不可欠なものばかりゆえ、1人の白票を投じる者なく全員の青票をもって制定と即日の施行を宣言させるようにと。それをあっさり破るとは…野次ばかりで、知能がまるで子供のようで覇気がなく遅れすぎた慮外者集団を相手にするのは、本当に心身ともに疲れるというものです」 ここまで誹謗されて、桑島をはじめ黙っている者はいない。一斉に怒号が浴びせられ、もはや議場は乱闘寸前にまで緊張状態が悪化していた。地方議会にして、まして漁野市のような小規模な市の議会においてここまでの緊張状態は、実に久しぶりの出来事だ…いや、久しぶりを通り越して市政施行後50年強もの歴史の間では前代未聞のことであろう。
「…」 市役所本庁の庁舎、そこは玄関口。1台の車が、ずっと停まっていた…“ホンダ・フィット”、実に変哲もない車だ。日常生活でも違和感はない。ただ、唯一の違和感は停めるべき箇所とも言うべきか…ともかく、1台の車がずっと停まったままコックピットに1人の男が、じっと庁舎を見つめたままだ。言い忘れたが、このコックピット内にいる男の名は、高知県警本部警備部公安課公安捜査係の刑事・逢沢大介。公安警察の人間としては、実に特殊な経歴をたどっていた…周りはキャリア組出身が多数、しかし逢沢は刑事や交通・生活安全まで経験したノンキャリアの叩き上げ。もともと公安捜査係は、警備部公安課の中でも指折りの能力が劣る人たちや、素行の問題を指摘されている“問題児集団”の部署というレッテルを貼られている。 「…ヤツは?」 1人の男が庁舎から出てきた…何時間、果たして張り込んでいたのだろうか。それぐらい、気の遠くなるほど根気の必要な張り込みから解放されるやいなや、コックピットから出てきて男を通せんぼする。 「…どけよ。時間ねぇんだからさ」 「市議会議員、若手にして新進気鋭のホープ。中土佐の一匹狼・桑島庸介…そうだろ?」 なぜ自分の名を知っているのか?…公安であれば、さもありなん。別に造作もないことだ…すると、逢沢はサングラスをとって品性のよい顔立ちを桑島の眼前に晒す。 「…何かあったな?」 「見ず知らずのあんたに、話す義務なんてない」 「…新聞記者の彼女にでも聞こうかな?」 深江のことか?…ますます、疑惑と困惑の目線を逢沢に向けていく桑島がそこにいた。そう、桑島が1人だけ庁舎を出てきたのには意味がある…闇雲な作戦を直感だけで敢行するほど、桑島は馬鹿ではない。並々ならぬ恐怖感と、想定外の出来事が起きる…それゆえ、桑島は準備を整えていた。熟慮断行…戦国時代の関東地方を席巻した大勢力・小田原北条氏の第三代当主、北条相模守氏康を思い起こす。 庁舎内は騒然としていた…議場周辺が慌しくなる。まさか、議会の開会初日に議員側が伝家の宝刀をいきなり使ってきた。いや、横谷の前ではまさに先手必勝といったところか。何かと言われれば、いわずもがな“不信任決議”を提出したのだ。頃合をしっかりと、桑島の知らないところで原たちは根回しで提出のタイミングを画策していたのだ。議員側を代表してベテラン女性議員・中道彩子が議場に立ち、長い演説で次々と横谷を口撃する。横谷の透視能力とやらも空しく、決議は1人の反対者を出さずにあっさりと可決・成立となった。その休憩時間、妙なオーラを感じ取った桑島が出てきたという流れだ。いったい、そのときの議場はどうだったのだろうか?…逢沢は追いかけ、桑島の前に再び立つ。手をしっかりと、逃げられないように握り締めながら。 「このまま、横谷佳彦を市長の座に居座らせる気か!」 逢沢の声がこだまする。横谷の名を聞いた桑島の表情がこわばるのは、無理もない話だ。沈黙を赦すまいと、逢沢は言葉を続ける。 「…彼女が記事書いてくれるだろうよ。隠しても無駄だ…俺にだけ話せ。そこらへんの素人情報屋どもと違って、お前のことまでわかるように口外なんてしない。したら、俺の場合は今度こそクビになっちまうがな」 手を離せといわんばかりに、逢沢の腕を指差す桑島… 「ある程度のことしか言えないぞ。あんたを信用してるわけじゃねぇんだしさ」 桑島と逢沢、この2人のお互いの出会いは最悪な印象をもたらした。桑島はついに、重い口を開く…あの議場での出来事を。
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