薄暗い部屋の中で毛布をかぶり、吹雪が止むのを待っていた記憶はとっくに忘れてしまったし、照り付ける太陽に肌を晒して、汗を噴き出しながら目的地までの道のりを急ぐというような事も無くなった。誰もが気温に関する一切の不平を口にしなくなった、春みたいに過ごしやすい秋の日の夜、いや、秋のような春の日の宵だったかも知れない。 「今週一週間は、「最先端の現場から」と題しまして、最新の医療技術を紹介してまいりましたが……。」 「昨日の胃がんについてのレポートは、凄かったですねぇ。」 その日とて例外ではなく、いつものキャスターが画面に登場して、その日起こった出来事を紹介し、加工し、時が経てばもはや誰も顧みる事のない近視眼的な見解に変えて、せっせと各家庭に向けて発信している。 小気味のいいテンポで会話を進めていく、ベテラン司会者と女性アシスタントのやり取りとは裏腹に、ディレクターの額には脂汗が浮かび、ADはトークを引き伸ばすよう、必死で出演者に向かって、動物園の飼育員がよく見るようなジェスチャーを繰り替えしていた。 「えーと、それでは……、VTRの準備が出来てないようです……。やだねー、何やってんだか。」 開けっぴろげに事態を暴露する司会者の機転で、ゲストのグラビアアイドルの顔にも、若干の笑みがこぼれた。すかさず、それを女性アシスタントが引き継いで、カメラのフレーム内では、いたって自然な会話が進行しているように見える。 一方、編集室では、上を下への大騒ぎである。 「駄目だ。間に合わない。無理です。無理。」 「ふざけんな。何も映ってないテープを、流すわけにはいかねえんだ。完璧じゃなくてもいいから、何とか形にしてくれ。」 「これはどうだ?ナレーションもテロップも、モザイク処理以外、全部できてるぞ。」 「患者にモザイクないと、不味いでしょ。」 「いや、患者の顔はきちんと処理されてる。問題は……。」 「なんだ。だったらいいじゃないか。早くそれを流せ。」 「いや、だから問題は……。」 「はい、VTR、用意できましたー。」 マイクから伝わる上方部の指示を、ADが素早く出演者たちに知らせる。ベテラン司会者は、老獪な政治家がリベートを得る時のように、表情一つ崩さず、いとも簡単にそれを受け取って、摩擦係数0の前振りを完成させる。 「お待たせしました。それでは「最先端の現場から」、三回目の今日は男性の病気、EDについてです。」 VTRに移行して、スタジオ内にほっと安堵のため息がもれると共に、ベテラン司会者の怒号が鳴り響いた。ディレクターはすっ飛んでいって、みんなのメシの種を何とか宥めようとする。グラビアアイドルは、突然変わった周りの雰囲気に、どう対処していいのか分からず、いまだ口元を引きつらせて、若干の苦笑いを続けていた。 さて、VTRが進むにつれて、映像を流す事を躊躇っていた一部スタッフの考えが、他の者たちにもようやく伝わり始める。レポートのテーマはED、即ち男性に特有の病である、勃起不全の最新治療法を紹介するものであった。まさか……、ナニがナニするわけじゃあるまいな……、誰もが一瞬、冷や汗を流しかけたが、憂慮されたような猥褻映像には至らず、今度こそどっと安堵のため息がもれた。 しかし、その考えが甘かったようだ。 紹介されている医者は、一風変わった治療法を実践しており、最近は他のメディアでも盛んに取り上げられているらしい。その治療法というのが、なんでも催眠療法を利用した勃起能力の改善というもので、一切の内科的手法を必要としない、医学会でも革新的な治療法なのだそうだ。 男性リポーターが、診察台ならぬ、革張りの高級そうな椅子に深く腰かけて、医師の手元をじっと見ている。ゆったりとした医者の動きが、中国の気功術を連想させる。 「それでは、3つ数えるとあなたは眠くなりますよー。はい、いーち、にー、さーん。」 男性リポーターは眠った。ベテラン司会者も眠った。女性アシスタントも、グラビアアイドルも、一斉に眠りに落ちてしまった。 どうやら、モザイク処理の間に合わなかった場所とは、他ならぬ、術師の手元だったようだ。その瞬間スタジオでは、VTRを見る暇も無く、仕事に励んでいたAD以外、全ての人がその場に倒れこみ、不可抗力ではあったが、惰眠を貪る羽目になり、同じく生放送のテレビを見ていた日本中の人たちが、深い深い夢の世界へと、強制連行されてしまったのだ。 「あなたはー、だんだん気分が盛り上がってきましたよー。ほーら、だんだん勃起してきまーす。私が指を鳴らすとー、我慢できなくなってー、射精に至りますよー。」 医者の右手が、獲物を狙う毒蛇の頭部のように、ゆったりと男性リポーターの額に近づき、親指が勢いよくしなって、パチンと一つ、音が鳴った。 男性リポーターの腰が、ぴくりと動いた。女性アシスタントの腰は動かなかった。グラビアアイドルは白目を剥いたまま、激しく歯軋りをしている。ベテラン司会者はというと、瞑想しているような、はたまた様々な人生の難題について思いを馳せているような、中年らしい凛とした寝顔で、その場に突っ伏したまま、下半身が非常に弱弱しく、ほとんど見分けがつかないほど僅かではあったが、確かに下へ沈み込んだ。 「ではー、3つ数えると、目が覚めますよー。とてもすっきりした心地で、爽快にー、目覚める事ができまーす。寝ていた時の記憶はー、全てなくなってしまいますがー、ただし、覚醒した後でもー、指を鳴らせばー、先ほどの動作を繰り返しますよー。はい、いーち、にー、さーん。」 男性リポーターは、何事も無かったように目を覚ます。続いて、VTR中、不慮の睡魔に襲われていた人たちが、スタジオ内で、日本全国で、一斉に意識を取り戻した。男性リポーターが、医者に話を聞く場面へと切り替わって、催眠療法を取り入れた経緯などが語られている。 しかし、一時的ではあるにせよ、直前の記憶が吹き飛んだスタジオ内の出演者たちは、気もそぞろであった。糖尿病の影響だろうか……、貧血かしら……、ヒステリーかも知れないわ……、様々な憶測が、各自の脳裏をよぎった。でも、誰も気付いてなかったみたいだし、まあ、いいや。それぞれの一人合点がいったところで、VTRが終わり、映像がスタジオのセットへと戻された。 ベテラン司会者が、ベテランらしい切り口で、適当に感想を述べる。記憶の欠如を感じさせない、広く浅い医療全般への言及が続く。それを受けて、今度はグラビアアイドルが、アイドルらしいまったりとした口調で、話を脱線させた。スタジオ内を笑いが包む。女性アシスタントが、会話を上手く修正して、まとめ上げる。程なく、生放送が終了した。 この放送を見た人は何も覚えていない。この放送を見なかった人は、何も知らない。かくして、誰も違和感を覚えることなく、これといって不都合もないまま、静かに夜は更けていった。しかし、日本中で誰一人として指を鳴らさない時間が、一体どれほど続くというのだろうか? 次の日の朝。都心へ向かう電車の車内で、早くも異変は起きていた。雑誌で今日の運勢をチェックしていたOLが、自分の所属している星座のランクが高い事に気を良くして、思わずパチンと、指を鳴らしてしまったのだ。その瞬間、彼女の目の前でつり革を握っていた、若い営業マン風の男が、妙な動きをした。OLは驚き、変質者ではないかと訝しんだが、どうも違うらしい。もう一度、鳴らしてみる。今度は車内全体で男たちがエビ反るのを、しかと両の目で捕らえた。何だ?神出鬼没の演劇集団だろうか?不思議に思えば思うほど、もう一度試してみたくなるというもの。OLは何度も、指を鳴らす動作を繰り返した。その度に、男たちは苦悶の表情を浮かべ、徐々に前傾姿勢をとるようになる。新興宗教の教義を聞いている信者みたいに、時が経つに連れ、信仰心の向上からであろうか、己への不甲斐なさからであろうか、次々ともんどり打っては跪く。電車が駅に着く頃には、顔をしかめて床に手をつく男性まで出る始末。OLは薄気味の悪さを感じて、黙って立ち上がり、苦しむ男たちを尻目にホームに下り立ったが、尚も疑問は晴れなかった。 当然ながら、ホームにも大量の男がいる。もしかしたら、車内だけの特異現象だったのかも知れないわ。10%の冒険心と、90%の悪戯心から、OLはまた指を鳴らして、前屈みになる彼らの表情をつぶさに観察した。どこかで見たことがあるわ。どこだっけ?そうだ!昨日、彼氏の部屋でヤったとき、最後にあいつもあんな顔してたような……。でもまさか、色情狂じゃあるまいし……、こんな公共のど真ん中で……。もう一回試してみよう。パチン。あれ?パチン。やっぱり。パチン。間違いない。パチン。どういう事かしら?パチン。さっぱり分からないわ。パチン。今まで男に振り回されてきた私への。パチン。神様からの贈り物?パチン。 太陽が真上まで昇りきった頃、噂は女たちの口から口へ、驚くべき早さで伝播していった。日ごろは彼女たちを冷遇している、管理職の男性上司が、事務職OLのワンツーパッチンで、早々とノックアウトを食らう。普段は決して首を縦に振らない、取引先の担当者までが、彼女のプレゼンも聞かずに、指先一つでうんうん唸った。都内某所で連続ドラマの撮影をしていた、容姿端麗な若手の男性俳優に至っては、密かに彼への恋心を抱いていた競演女優のダブルパッチンで、難なく彼女の胸に沈んでいったのである。日本中の男が叫ぶ。「分かった!何でも言う事を聞くから、それを止めてくれ!」 男たちは逃げ惑う。しかし、女たちは執拗に彼らを追い掛け回した。始めは恨みにより、段々と憂さ晴らしにより、最後には愛ゆえに、永遠の追いかけっこは止む事を知らず、いつしか彼女らはハイヒールを脱ぎ捨て、一撃の銃弾に全神経を集中させるハンターよろしく、無心で男たちを狩っていった。 午後6時を回った頃。テレビ局に一本の電話がかかってきた。夜の報道番組を担当しているディレクターは、股間を手で押さえながら、排便を我慢しているおかまのオカピーのような足取りで、電話口へ向かった。 「もしもし。昨日の特集で取材を受けた医者ですけど。あんたたち、あのVTRを加工しないまま流したでしょう?まったく、何て事してくれたんだ。日本中がパニックじゃないか。催眠を解く方法を教えてやるから、今すぐ来なさい。」 ディレクターはその時、事情を全てを悟った。そうか!あのVTRを見てから、体がおかしくなっちまったんだ。早く状況を改善しないと、日本の男は、残らず打ち止めになっちまうぞ。その間も、彼の背後では女性スタッフによる愛の儀式が、一時たりとも休まる事を知らず、リズミカルに繰り返されていた。ディレクターは万力で締め上げられるような陰部の痛みに耐えながら、若手の男性スタッフを医者の元へ送ろうと辺りを見回したが、どうやら年齢に反比例して女性の餌食になる確率が上がるらしく、若い男たちは皆、口から泡を吹いてその場に倒れ込んでいた。俺が行くしかない……。ディレクターは駆け出す。 待ってろ、同士よ。ディレクターは走り、途中何度も転んでは立ち上がり、ひりつく股間をかばいながら、尚もひたすら医者の元を目指して走り続けた。途中、女たちが目ざとく彼を発見しては、攻撃を仕掛けてきたが、もはや彼の使命感は、肉体の限界を遥かに凌駕する境地に、彼を立たせていたのである。彼はその時初めて、子供の頃からバカにしていた太宰治の気持ちが痛いほど分かった。 医者の元に到着すると、さっそく催眠術を解く一連の動作をカメラに収め、一路来た道を引き返す。こうなってしまった以上、夜の報道番組までに、何としても間に合わせなければならない。ディレクターは歯を食いしばり、棒のようになった下半身に鞭打って、とうとう、テレビ局に帰ってきた。 既に生放送は始まっている。ディレクターはスタッフに指示を出し、医者の示した催眠解除法を流すよう、番組内容を変更させた。VTRが始まると、また日本中の人々が眠りに落ち、いち、にー、さーんで、全ての催眠術から解き放たれた。何も知らずに目を覚ますと、何も知らない間に、一切の処置は終わっていたのだ。 「これで救われた。俺たちは自由になったんだ。」 静かに感慨の涙を浮かべるディレクターの後ろで、女性スタッフが、効き目の無くなった愛の儀式を、まだしつこく行っていた。ふと、それが愛らしく見えて、ディレクターは笑ってしまう。 スタジオでは、ベテラン司会者の軽快なトークが続いている。 「はい、続いては大好評、「最先端の現場から」ですね。第四回目の今夜は、女性を襲う不感症の、催眠術による画期的治療法です。」 「VTR,ちょっと待った。」 ディレクターはスタッフたちの作業を制止し、まだモザイク処理の施されていない方のテープをデッキに挿入させた。
|
|