文明を食べる虫
広大なる宇宙に思いを馳せ、人々は遥か昔から、地球脱出の夢を見続けてきた。消え入りそうな希望を守るべく、行き詰まった地上に見切りをつけ、無限の可能性を秘めた空間に、自らの夢を少しづつ逃がしてきたのだ。 今朝の朝刊によると、地球の裏側で、ついに核兵器が使用されたらしい。この先、世界はどうなってしまうのか。館長はひとりごちながら、それでも日常の生活を続けていく事が、何よりの反戦運動になるのだと、重い足取りで、仕事場に向かった。 図書館に到着すると、館内の奥から、館長を呼ぶ声がする。朝からこう大声を出されると敵わないといった表情で、館長は声のする方へ歩いていった。 見ると、若い女性職員が血相を変えて、一冊の本を館長に差し出す。それを受け取ると、館長は本のページを繰り、問題のページに差し掛かった途端、女性職員同様、途方に暮れてしまった。おかしい。変だ。何度目を擦っても、そこにあるべきものがなくなっている。手品のような鮮やかさで、綺麗さっぱり無くなっているが、どんなに手口が巧みであっても、彼の職業上、とても笑える状況ではない。 「信じられん。こんな事は初めてだ。」 「悪質ないたずらでしょうか?念のため、利用者名簿を調べてみます。」 「ああ、そうだな。頼むよ。」 女性職員は、慌ててカウンターの方へ駆けて行った。短めのハイヒールではあるが、図書館の中では効果的に響く。非常事態であるにも関わらず、館長は職員を見送りながら、顔をしかめた。 「こら。走っちゃいかん。落ち着きなさい。」 そうは言ったものの、館長の心境もにわかに濁り始め、長年苦しんできた不整脈が、徐々に館長の心臓を締め付け始めていた。本を手に、よろめきながらも来館者用の椅子に腰掛ける。もう一度ページを繰ってみて、大きく一つため息をついた。 「どうなってるんだ?文字がなくなっている。第三章、132ページ目から先が、そっくり消え失せているぞ。印刷された文字を、これほど綺麗に消せるわけがない。しかし、この黄ばんだ紙の汚れ具合からして、紙を張り替えたとも思えない。ちくしょう。誰の仕業だ。さっぱりわからん。」 女性職員の調べたところによると、問題の本は図書館が建てられるにあたって、新品を業者に納入させたもので、開館以来100年間、誰一人借りる人がおらず、電灯の光も届かない薄暗い角の本棚の、一番下の隅で長年ほこりを被っていたのだ。 「なんてこった。世界の文学に多大なる影響を及ぼした巨匠の遺作だぞ。まったく、嫌がらせにしては酷すぎる。」 すぐさま館長は、同じ本を取り寄せるべく、業者に連絡を試みた。しかし、その本はとっくに絶版となっていて、出版社からは入手不能である事が判明した。 館長は憤慨する。もの心ついたときから、この図書館に通いつめ、職員として採用されてからも、図書館の歴史と共に、誠心誠意、仕事にまい進して来たのだ。ところが今回の失態で、彼の仕事に対する自尊心は大きく失墜し、あわせて世紀の大作家の作品が、これほどまでに軽んじられている現実に、落胆せずにはいられなかった。 しかし、館長の仕事に対する情熱は、決して消え去ったりはしない。古本を扱う書店の名簿を開き、片っ端から電話をかけていった。昼食も忘れて、徹夜でさえ厭わない覚悟であったが、あいにく本屋は時間に対し、特殊なスタンスを取っている。同じ本を扱う職業に従事する者として、たとえ一分たりとも閉店時刻を過ぎてしまった場合には、一切の意思の疎通を遮断する、店主の姿勢に感銘すら覚えていたのだ。 98件目で、ようやく問題の本を所有している書店に出くわす。さっそく売買契約を交わして、図書館宛に本を送るよう手配したが、売買の成立した代金を聞いて、館長はまたもや憤慨を隠しきれなかった。ほとんど二束三文の、古紙同然の値段だったのである。 「まったく、世界の文学に影響を及ぼした、巨匠の遺作だぞ。信じられん。」 一週間ほど経った、休刊日の翌日。放射能注意報をかいくぐり、館長が出勤すると、机の上に小包が届いていた。 「おお、ようやく来たか。館内の本が、一冊でも欠けていると、まるで自分の歯が抜けてしまったかのような寂しさを感じる。私とこの図書館は、運命共同体だからな。でも、まあこれで、私たちも健康体に戻ったわけだ。」 館長は鼻歌交じりで小包を開封し、中身を調べ始めた。発注通りのタイトルを確認すると、本を開き、目次から順にページをめくっていった。 そして、またしても館長は、途方に暮れてしまう。汗がどっと噴き出して、膝が震え、本を持つ手に力が入らない。どんなに目を擦っても、ためつすがめつ、本をひっくり返してみても、ページの後半が、まったく落丁しているではないか。 「今度は86ページから先がない。一体全体、この本は呪われているのか?」 本を取り寄せた古本屋に電話をしてみたところ、梱包する際には、確かに不良のない状態だったらしい。それでは、ここに着くまでの間に、勝手にインクが消失したとでもいうのか?館長の質問に対する店主の意見も、さっぱり要領を得ない。館長は受話器を置くと、椅子に腰かけ、焦点の合わぬ視線のまま、微動だに出来なかった。 その時、あわただしく職員がやってきて、館長に耳打ちをする。館長はそれを聞いた途端、顔面蒼白となって、貸し出し用のカウンターに急いで向かった。到着すると、どうして良いのか分からないといった職員が、目に涙を浮かべ、館長の方を見やった。 「館長!どれもこれも真っ白です!一文字も残らず、全ての言語が無くなっています!」 そこには、主題も知れない本が、山積みになっていた。三日月の下で、箒にまたがり、夜の空を飛ぶ魔女の絵や、帽子を被った紳士の腕をとる、白い服を着た婦人の絵が、カバーに描かれているものの、内容の分からない、意味の通用しない、無数の本たちが、死体のように積み重ねられていた。館長は頭を抱えて、その場に崩れ落ちる。 「あああ!私の人生が!命が!消えてしまった!」 事態は風雲急を告げ、誰も夢想だにしない方向へと転がり始める。緊急の休館日となった館内で、職員たちが関係各所に連絡をすればするほど、被害は雪だるま式に増えていった。 原因不明の文字消失騒ぎが、日本中の図書館で発生していたのである。行政はパニックに陥り、マスコミは所管庁に押しかけ、ひどい状況になっているとの事。とりあえず、職員たちは自宅待機とする旨、館長へと伝えられ、図書館は一時的に閉鎖された。 その夜、テレビのニュースでは、困惑するキャスターらによって、時々刻々と、更なる社会の混乱ぶりがリポートされた。 「図書館の本だけではなく、あらゆる文字という文字が、世界中で、同時多発的に消滅しています。それに加え、全てのコンピューターの言語表示が、出来なくなっているもようです。これをご覧下さい。この白い紙にマジックで文字を書きます。ほら、今、消えました。あっという間に、消えてしまいます。一体、どうなっているのでしょうか?」 館長は画面を見つめたまま、凍り付いてしまったように、身動き一つ取れなくなった。ついに宇宙へ逃がしきれなかった希望が、目の前で、音を立てて崩れていく。危険の蓋然性を凍結したつもりで、努力を怠った結果、理性までもが腐食して、溜まりに溜まった膿が弾けてしまった。 「世界の終わりだ。破滅だ。人類が、対話を忘れ、余りに言語を軽視してしまったがため、文字に見捨てられたに違いない。」 館長は絶望し、机の上に置いてあった鞄を、力任せに床へ投げつけた。すると鞄の中身が中空に散らばり、今日取り寄せたばかりの本が、フローリングに叩きつけられてしまう。 「ああ、混乱して、鞄に入れてしまったらしい。思えば、こいつが全ての兆候だった。」 人生を本に捧げてきた館長は、自分の暴挙に驚き、慌てて本を取り上げると、愛しむように指先で撫でた。もはや白紙の書と化した巨匠の遺作を、次の世代に残してやれなかった悔しさで、涙が頬をつたう。 何も書かれていない本を開き、真っ白なページをめくっていた途中、館長の心臓が一瞬止まった。本の冒頭に、今にも消えようとしているが、まだ微かに読める、文章を発見したのだ。 「おお!最後の文字だ!世界で最後に残った文字に違いない!前書きか?詩のようだぞ!何と書いている?何と書いてあるんだ?」 そこには、次のような詩が書かれていた。
文明を食べる虫
文明を食べる虫が 世界中の図書館を空にする 文明を食べる虫が 世界中のコンピューターを駄目にする ありとあらゆる文字が忘れられ 口述も徐々に変形し 時と共に咆哮へ変わった
最後の人が永遠の眠りについたとき 残された猿たちは 墓の作り方さえ知らない
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