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作者:かつまた

最終回   1
   罠

 蒸し暑さで、カラスまでが寝苦しさに耐えかね、日付の変わった町の上空で、舌を出して喘いでいる。赤外線スコープで覗いたような、判然としないネオンの下で、人口の数だけ存在する主人公たちが、遠い記憶を頼りに、勝手に現在をつむぎ出しているみたいだ。
 駅前の噴水広場で待っていると、男が話しかけてきた。私もそれを目的に来ているはずなのに、携帯でメールを打っている最中に顔を覗き込まれると、何だか男が私の行動をいちいち阻害する根本的な障害物のように感じる。
「君、超かわいいね。カラオケ行こうよ。」
「今、忙しいから。黙ってて。」
 なおも私は目を伏せたまま、男の着ているものを観察していた。似合う似合わないは別として、どれぐらい金を持っているのか、服装を見れば分かる。男は細身のスーツに、人工皮革の靴を履き、ブランドもののビジネス鞄を肩にかけて、にやにや笑っていた。社会人1年目の初任給で、即席に作り上げた虚栄心が、女を餌に自尊心へ化けようとしているらしい。
「ここ、暑くない?涼しいところ行こうよ。駄目?何で?生理?」
 男は自分の顔の前でピースサインを作って、私に歩くよう目で促しながら、後ずさりを始める。確かにここは暑い。醜い男たちに何度も言い寄られるよりは、この男について行った方がまだマシだろう。
 ホテルに着くと、男は鞄を放り投げ、私の手を引いてベットに向かった。介護老人みたいに、放り投げられる。スプリングが軋んで、男が上から降ってきた。
「あー、いい匂いだね。中学校の制服って、何でこんなにエロいデザインなのかなぁ。」
 胸元に突っ伏したまま、鼻から深呼吸をして、背中を膨らませる。
「先にお金ちょうだいよ。シャワー浴びてくるからさ。」
「シャワー浴びたら意味無いじゃん。そのままの方がいいよ。」
 スーツのポケットから二万円を取り出して、私の鼻先にちらつかせる。右手でそれを奪い取り、自分の財布に入れようと身を起こしかけたが、男が重くて動けない。無理に逃れようと体をくねらせる度に、間違ったメッセージが男に伝わってしまう。
「ちょっと、待ってよ。二万円。仕舞うから。あーもう、暑苦しい。」
「クーラー効いてるじゃん。寒いくらいさ。」
 男は上着を脱ぎ捨てて、上半身裸になり、左の二の腕に噛み付いてきた。肌に歯をあてたまま、男の顎が痙攣的に微震して、血管の中に針を散らしたような痛みが、手首に向かって数回走った。
「女はね、恋人の利き腕が好きなのさ。恋人の逞しい筋肉も、普段はスーツの中に隠れていて、野心の一つも垣間見せない。狩人の魂を抜かれた、廃人同然の、企業の奴隷だ。女だって、もう今の時代は力じゃない、頭なんだって自分に言い聞かせる。粗暴な男に騙されて地獄を見るよりは、貧弱な利口者の方が遥かにマシ。先週読んだ雑誌にも、そう書いてあったって、必死で思い込もうとする。しかし、その発達した上腕二頭筋を見た途端、あっという間にいちころさ。現代社会に流布している情報がなんだって言うんだ。太古の昔にインプットされた本能に抗う無意味さを、恋人を前にして嫌というほど思い知らされるんだ。」
「下らない事言ってないで、早く終わらせてよ。」
「まだまだ、話はこれからさ。さあ、そこで、僕は君の左腕に噛み付いた。そして君は、右手に二万円を握り締めている。どういう意味か、分かるかい?」
「知らねーよ、バーカ。」
 あーあ。何で男って、こんなに愚かなんだろう?世界中の女たちが苦労して、知性を磨いて、地位を勝ち取って、名誉を手に入れた挙句、ことごとく男に飲み込まれていく。他の同性より上を目指して、他の同性より精神を酷使して、やっと得られるものは、ますます精緻になった罠だけだ。人間が社会を手に入れた瞬間に、真実の愛はもう消えてなくなっている。若しくは真実の愛という言葉こそ、男たちの発明した最も卑怯な罠なのだ。
 この罠から逃れよう。ここにずっといると、駄目になる。女は男たちの作った真実の愛から逃れて、新しい、本当の、真実の愛を建設しなければならない。そうすれば男たちは狼狽し、嘆き沈み、停滞期を経て、やがて女を求め彷徨い始める。新たな思いは新たな潮流となり、古いベクトルは葬り去られるだろう。男たちこそ、やって来るべきだ。私たちの仕掛けた罠に向かって。
 男は事が終わると、急に100歳も老け込んだようなしわがれ声になって、タバコも吸っていないのに中空の煙を払う仕草をしながら、私をベットから追い出した。床でクラゲの死骸みたいに散乱している下着を集めて、シャワールームへ向かう。
 しかし、何はともあれ、これで目標の金額に達したのだ。目頭切開と、目の下の脱脂、鼻にシリコンを埋め、豊胸を施す手術に必要なお金を、ようやく工面できた。今度は、私がゲームの親になる番だ。石鹸の泡で乳房を撫でながら、既に始まっているはずの幸せを噛み締めようと自分の体を抱きしめてみたが、男と交わった後だからだろうか、必ずしも精神は温かくならない。せっかく我慢してきたのに、これでは余りにもったいないので、消えかけの火種に無理やり空気を送り込むようではあったが、私は沈滞する心持に鞭打って、気分を上方に追いやった。
 部屋に戻ると、男は体を九の字に曲げて、親指を口に含んだまま、静かに寝息をたてている。寝顔だけを見ると胎児のようで、男性一般に対する反抗心が萎えてしまう。一瞬、今なら男のスーツのポケットにまだあるであろうお金を、いともたやすく窃盗できるという考えが頭をよぎったが、暫くその場に立ち止まった末、結果的に被る咎を消化するのに足るだけの、倫理観の喪失が忍びなかったので、やめておいた。
 ホテルから出ると、さすがにカラスも消え失せており、日の出にはまだ早い、私の肌に最も適した時間帯だ。上空の気圧が低いのだろうか、にわかに火種が全身に飛び火して、歩みも軽くなった気がする。私はひとりごちた。このままでは幸せになってしまうぞ。自制も虚しく、私は自分の行動を制御できない。

 整形外科医院の診察室。白を基調とした室内で二人、背を屈め、秘密めかした小声で会話をする。
「腫れは、もうほとんど無いですね。これは痛みますか?」
 親指で乳房を押し付けながら、女医は最後の確認作業に余念が無い。
「いえ、大丈夫です。先生、ありがとうございました。」
「胸が大きくなって、幸せですか?」
「胸が大きくなって、幸せです。」
「白目が増して、真実の愛が得られそうですか?」
「白目が増して、真実の愛が得られそうです。」
「それは良かった。では、お大事に。」
 私は病院を後にして、貸しビルが立ち並ぶ裏通りへと歩み出た。午後二時を回ったばかりだというのに、太陽の光から隔離されたこの辺り一帯は薄暗く、まだ新しい自分と統合しきれていない私を、結果的に守ってくれているようだ。強い日差しは生命の活動を活発にするが、同時に弱いものからは容赦なく体力を奪う。真実の愛を姿態に掲げながら、私は虚偽の伝道師となり、罠を司る罠に落ちて、今、太陽の下に現出した。ほら、世界中の男たちが、指を三本立てて、肩口でちらつかせながら、こちらに向かってやって来る。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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